日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

闇が欲しい。

今朝は霧がかかっている。昨日よりは寒くはない。右折して、いつもの森に向かう。どんな感じになっているか気になった。

向こうの山が霞んでいて、樹の枝の輪郭だけがボンヤリ見える。それを眺めてから、振り返り、森の中を流れる河にそって歩いてみた。何度来てみても、また別のものが見つかる。感心する。
真冬の森は樹々の葉が落ちてやせ細り、向こうが透けて見える。地面は黄色い。空気の白と、森の奥の闇の部分が交互に見えて、僕の興味はそそられる。物見遊山ではない。そういう興味の対象になる風景は、その人の鏡なのだろうと思う。僕は繰り返し、鏡となるものを探している。

絞って30秒の露光で撮影する。夜明けは気づかないうちに陽が明るくなっていく。シャッターを切る度に露光時間を短くする。すべて勘でやっている。露光が足りすぎてしまうのも面白くない。写真の中に闇が欲しい。
考えても仕方がない。良く撮れた1枚の写真は、言葉で意味を語れるものではない。普通の言葉では無理なこと。たぶん今撮っているものだって、今までとは違う何かが写っている。そうでなければゴミ。多く撮ったうちのうちの1枚だけが手に入ればよい。その1枚が、自分自身を救ってくれる。

その昼に家族をつれて、琵琶湖に立ち寄る。野鳥の撮影している人が多くいるところ。のんびりした風景は、今の自分にはそぐわない。