日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

空振りと、絶倒。









すぐそこに山は見えるのに、立ち入る事はできない。
みんな会社の敷地や家の柵や、立ち入るべからずの立て看板でふさがれている。街の自然とは厄介なものだ。
歩いても歩いても全部空振りに終わる。別にいいや、こんなインスタント自然写真、撮る気もねえや、とつぶやく。
山の高台からは、すぐに民家の裏が見える。ベランダや部屋の中が開けっぴろげだ。さっさと立ち退いた。これじゃあ、ダメだ。

撮る人間は、気持ちに流されてはいけない、現実の確かさに踏みとどまる必要があると、最近思う。
センチメンタルと言えども、眼は冷静なものだ。そのことを忘れてはいけない。どこまで行っても曖昧な写真というものに付き添わなければいけない。厄介な関係だが、その曖昧さが逆に救われたりもする。何にせよ、続ける意外に道はない。
立川談志は何であんなに落語に夢中になれたのだろうと、しみじみ疑問に感じている。不思議なのだ。冷静に身を投じる感じが、何だかたまらない。アラーキーと重なる。丸善志ん生について書いた文章を立ち読みしたら、打ちのめされた。翌日も立ち読みした。『談志絶倒 昭和落語家伝』を買って帰った。今はもう誰も生きていない人ばかり。うなされるような気分で読んだ。

撮れる時は、いくらでも撮るべきだと思うが、無駄なことはいくらやっても無駄だ。だけども、空振りも悪くはない。