あるテーマを見つけてドキュメンタリーする写真ができたなら、いくらか、その世界を泳いでいくことができるのかもしれない。
しかしそれは自らの海ではない。相手の海だ。相手の海で泳ぐことは、僕にはできない。加えて、その分野を特筆したいという考えも無い。
例えばゴッホは、身の回りの世界への興味に終始した。そこで絵画の問題やこの世の神秘と格闘した。
写真が本当に信頼できるものであるのか、そこから始まる人もいるのである。
昨日は、それが全くダメだった。夏の青い空の下で撮る気持ちよさ、それに踊らされてしまった。かえりみれば、撮った写真は単なるイラストでしかなかった。
その証拠に、高揚感という魔法が解けてしまった後、そこに見えるのは視覚的な仕掛けと繰り返しの世界でしかなかった。繰り返しと凡庸が写真の本質とか言いながら、実はそれだけではダメなのである。何かが写真の中に写ってないと・・・!
それを得るには、繰り返しと凡庸という手段、結局それしかないのである。いかに派手なことをやっても、それは同じことだと思う。
僕は、間違っているのでしょうか。
牛腸茂雄の『self and others』をとうとう買った。
写真を始めた頃からずっとの(デジャ=ヴュ1992年・8号)、写真とは? という問におぼろげながら答えてくれそうな一冊だった。
昨日書店で見つけて、「今だ」と気持ちになった。
もちろん牛腸茂雄と自分は「人」が違うから、参考はマネにしかならない。
ただ思うのは、こういう写真が存在するのだということ、それが肝心なのである。
昨日は、もう一つ、写真と時間との関係、それを今さらに気づいた。
時間が写っていることを感覚することは、きっとそこに何かある。
写真の曖昧さは、時に何かを見えなくさせる。