アジェの同時代にはラルティーグがいて、ラルティーグは華やかなパリの繁栄と自らの豊かな生活を写真にした。
反面、アジェは流行の波にも乗らず、当時でもすでに古き良きと言われそうなパリの街の「表面」を複写して回った。
そのまんまに写らない写真は、写真として使い物にならない。
その意味でアジェは、正しいことをやっている。
自己表現をしない表現は、清々しい。
生涯に8,000枚の写真を残したアジェの写真を撮る動機は、パリの街にあるもとばかり僕は思っていたが、単純にそれだけでもなかったのではないかという疑問も片方では残る。
流行にのらないアジェ。
そして、どこにも属さないアジェ。 時代おくれな人だったと言っても、いいのかもしれない。
時代に乗れないという劣等感が、孤立を招いた。 僕は、そう思う。
だけどそれを2021年の今、口にしたところで、それは空振りの言葉でしかない。
結局、現代に残ったものは、写真という存在の多角的な意味と価値。
歴史上、誰かがやる運命にあったことを、アジェが果たした。
そんな感じがする。
こうして整理しながら文章にして気づくのは、流行の表層は消費の渦の中に消えていくこと。
生きるということは実に大変なことだが、みんなに合わせて、自分の中に無いものを有ることにする必要もない。
写真を撮ることが、アジェにとっての自分の「事」になったというのは、誰が何と言おうと他人には覆せない事実だ。
アジェの写真にはそういう強さが見てとれる。
終わりです。