日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

『赤毛のアン』の高畑勲。

今回も長くなります。ちゃんと書こうとすると、長くなります。

僕の場合、「言う」のでは「書く」です。 反射神経が鈍いので、しゃべりは下手です。

お付き合いください。

 

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また、高畑勲の『赤毛のアン』の第1話「マシュウ・カスバート驚く」を見る。

録画したのの第4話までは、ハードディスクに残している。

 

作り手としての高畑勲を尊敬している。

その割には全作品見ているわけではないのだけど、「ハイジ」以降の「マルコ」「アン」「セロ弾きのゴーシュ」「じゃリン子チエ」のあたりまでで、僕の学習欲は十分に満たされる。

氏の作品は、人間というものに対する素朴な問いかけを、一貫して感じることができる。

 

素朴というと悪く聞こえるかもしれないが、そうではなく、時代が進むと余計なテーマが盛られて空回りさが世の作品の中には目立つようになる気がするが、生きるということの核となるものは、とどのつまり一つしかなく、そしてそれは感情的に彩られたりしないで、暖かくも冷たくもない、そういう意味での素朴さのことを僕は言っているのであり、僕は高畑作品にそれを見ている。

 

一見、アニメーションじゃなくても・・と思ってしまいそうな原作に取り組みながら、見終われば、やっぱりアニメーションがいいという答えに帰結する不思議さが高畑作品にはある。 

これは高畑作品の、謎だと思う。

 

そこで、『赤毛のアン』である。

 

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ちょっと前、WOWOWで初めて全話を観た。

1979年当時、この女の子の物語に、小学生の男の子だった僕が馴染むことはできなかった。

だからNHK三波伸介か、象印クイズ『ヒントでピント』を見ていたように思う。

(そんなことどうでもいいんだけど、それはそれで、たまらない懐かしさがあったりする)

 

さて、第一話「マシュウ・カスバート驚く」は、

汽車に乗って駅に降り立つアンをマシュウが馬車で迎えに来て、2人はグリーン・ゲイブルズに向かっていく、ただそれだけの、数時間の話である。

ただしそこには、本当は男の子を迎える取り決めだったはずが、やってきたのは女の子だった、という事件をはらんでいる。だからタイトル通り、マシュウは驚く。 

続いて第2話では、マリラが驚く。

僕は原作は読んでいないから、アニメ版の独自性はわからないのだけど、この丁寧な時間のかけ方は、この作品にとって本当に重要な部分だという演出の意図があることは間違いないと思う。

 

それだけに場面ごとの語り口は、丁寧で、うっとりとさせられて、しかもプリンスエドワード島という土地の風土までを感じることができる。

 

『じゃリン子チエ』でもそうだが、実際作りだす前の準備が入念だからこそ、つまり原作が持っている核となるものを把握し、それをどう見せるかをちゃんと考える作業に心血注いでいるからこそ、見る側はアニメーションになっても何の違和感もなく、ごく自然に作品を楽しむことができる。

それはアニメーションにとっての演出のなせる技だったのかと、著書『映画を作りながら考えたこと』を読んで、初めて僕は気がついた。

そして、案外それは高畑作品の独自性や個性につながっているようにも見えるし、だったら他所では一体どうなっているのかという疑問にもつながったりもする。

社会の方がアニメーションという分野に寄っていってる今では、そういう疑いを持つ自由さも無くなっている気がする。 認知されるということは、ハングリーさを失わせる。

 

 

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僕がこの第1話で凄いと思えるのは、アンが駅のホームでマシュウを待っている場面。

セリフはなく、小鳥の鳴き声や自然の音だけがして、音楽は流れず、のどかな場面。

ただ間を持たしているのではない、きっと。

そこには、とてつもない日常が横たわっている。

そのために作り手の細心の注意が払われている。

 

なんでもない場面だが、無のように見えて全てがある。

そういう時間がここには「在る」と思うのだ。 偶然ではない。

 

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そのようなことは、今の僕が写真を通じて求める最大の対象と、同じ場所にあるように思う。

自分の写真を眺めている時に、ふと高畑勲の『赤毛のアン』のことを思い出した。

 

とどのつまり、核となるものは一つしかないと、僕は書いた。

高畑作品は僕にとっては重要なもので、先人が作り上げた教科書の一つだとも思っている。

 

 

赤毛のアン』では他にも、さりげなく凄い場面がいくつかある。

アンをグリーン・ゲイブルズに迎えて1年過ぎた日、マリラの記憶が日常の時間の中で蘇り、今と重なるという場面がある。

この場面も凄い。何のエフェクトも使わず、場面のつなぎ合せだけで、そのことを表現している。

そういうやり方は、僕の理想だ。

 

 

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