まず、告知です。
引き続きですが、
MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/w(ヴォイスギャラリー)
にて、作品展示します。(2月中旬からの予定)
そして、同じくヴォイスギャラリーと、haku_Kyoto
にて、オンラインで作品販売もしています。
よろしくお願い申し上げます。
以下は、今朝撮った写真。 8,424歩で212カット撮影。
朝4時半に家を出て、駅まで歩き、電車に乗る。
それが休みの習慣になりつつある。
今朝は夜が明けたら、きれいな青空だった。
京都という街の写真的呪縛を避けながらも、撮り重ねていくうちに、結果としての京都が写ってしまってもいいような気がしてきた。
今までは「見えた」と直感すれば、撮るには撮るのだけど、結局選んではこなかった。
でも京都タワーとか、四条大橋から見る先斗町とかが、それありきではない感じで写っていれば、それは主題を伝える妨げにはならないはずと、思えるようになった。
どこにでもある街としての京都。
どこでもない街としての京都。
過剰に信じていない、京都。
知らず知らずのうちに、どこに行ってもどこでもない場所として、僕は写真を撮ってきた。
初めから地域性を撮ろうという考えはなかった。
自分自身が田舎の出身だからということが、大きいのかもしれない。
だからといって、それがコンプレックスだったというわけでもない。
幼少の頃から僕は、生まれたこの場所で、これから先もずっと生きていくことは無理だと、漠然と思っていた。
地域性に何故興味を持てないのか、地域性をモチーフにはしないのか、
そのことは一度、自分自身、徹底的に考えてみなければいけない。
植田正治は著書で言っている。 「くたばれ、郷土写真!」と。
これは大概の田舎写真の創作意識の無さを批判しているのだが、その意見には僕も同調する。
植田正治も砂丘や境港の街など、鳥取県をモチーフとして撮っているが、植田正治は誰のものでもない植田正治の写真を撮っている。すべてのことをありのままに素直に見て、そこから写真を始めている。
既視としての風景を、未知の風景として撮っている。そこには喜びがある。
それはどんな創作にも共通する、なくてはならない資質だと思う。
それこそが写真表現と呼べるはずだ。
だから、京都という使い古したイメージを今さら上手に撮って、何の意味があるのか?
京都の写真的呪縛を物ともせず、自分自身の本当を見つけるには、どうしたら良いのか?
考えてるだけでは答えは見つからない。まず、撮らなければ。
また、同じようなことを書いている。
オヤジだからかな。