日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

ボーマン船長はモノリスに連れられていった。

 

前回に書いた、映画『2001年宇宙の旅』の続きを、もう少し。

ラストの部屋のシーンにまでつながる僕なりの解釈というか、印象を書き起こす。

 

f:id:sakakazupics:20210321053054j:plain

 

BSの番組で「スターゲート」と呼ばれてたあの光のトンネルのようなものは、 宇宙の奥底のような場所にボーマンを連れて行き、 同時にそれはボーマン自身の持つ、内なる生命の宇宙にシンクロする。

そのシンクロした風景が、あの「部屋」であり、そこでボーマンは輪廻転生を見る。

彼は死を迎えるベッドの上で、次なる命の始まりを眺める。

宇宙は、地球の外のことだけではなく、人の中のことでもある。

 

f:id:sakakazupics:20210321055744j:plain

 

木星近くの宇宙空間でボーマンは、大日如来に召された、みたいな感じ。

それを他者の眼で現実的に見れば、 発狂したボーマンの「死体」は小型宇宙船「ポッド」に乗せられて、 永遠なのかどうなのか、 宇宙空間をさまよい続ける、そんなことになるのじゃないかしら。 

 

密教では、言葉に表せない教えをマンダラという絵図に託していると聞いた。

つまり、その教えに対する理解は、受け取る側の努力の上での解釈にまかせてられている。

とすると、真理は一つの言葉で表せない、ということになる。

または、それを表すには言葉は不自由すぎるということなのかもしれない。

言葉は発する側と受け取る側で印象が全然変わってくるから。

抽象的なものの本質を言葉で表すには、あまりにもったいない。

言葉を絵として扱えば、それはできるのかもしれない。

でも言葉を使った時点で、受け取る側の先入観が邪魔をする。

 

それはともかく、『2001年宇宙の旅』も、マンダラと同じことが言えると思う。

誰がどうしたとか、そういうドラマも悪くないが、映画がそれだけのものであってはつまらない。

2001年宇宙の旅』のように、宇宙という場所の中にいる小さな人類という視点は、なんだか気持ちがいい。

そういう感覚を僕の中に作ったのが、元をただせば『2001年宇宙の旅』という映画だ。

ずっと、謎は謎のままでいい。

 

f:id:sakakazupics:20210321060137j:plain

 

f:id:sakakazupics:20210321060158j:plain

 

f:id:sakakazupics:20210321060235j:plain

 

 

 

f:id:sakakazupics:20210321065631j:plain

 

f:id:sakakazupics:20210321065648j:plain

 

f:id:sakakazupics:20210321065704j:plain