昨日、僕の個展『horizon horizon horizon』の展示風景をスマホで撮りました。
スマホで写真をあまり撮らないので、使い方がよくわからない。
今度の日曜の最終日に、三脚を立ててちゃんと撮りたいと思います。
鑑賞の邪魔になったら、すんません。それも含めて鑑賞して下さい。
上の作品が、『name is kyoto』シリーズです。
写真愛好家が好む、「古都・京都」を上手に撮った作品とは似ても似つかぬ「普通」の京都。
日々過ごす時間はどの土地であっても変わりはないし、どの土地も同じだけの時間が過ぎている。僕は、京都生まれの人ではない。だから住んでいる街としての京都をあるがままに撮る。
そう、一個一個、きちんとあるがままに撮るのです。
結果として、それって、トポグラフィクスじゃない?、ということになるのです。
そして、夕方ごろから「鑑賞する時間」というものについて考えています。実際に作品を眺める時間の長さと、その内容について考えています。
ホントは僕の写真だって、ゆっくり見てもらいたいと願っています。
心地の良い椅子にでも座って、何も考えずに、ボンヤリと眺めてもらいたい、そう思ってます。
無理して考えたり感じたりしようとすると、作品が理屈を表すだけの「物」になってしまう。
単純に「言葉」で表せるくらいの思考と動作で済むくらいなら、作品なんて何の面白味もないし、ましてや世の中が全てが、商売という判断基準だけで終わるのなら、こんなつまらない世界はないです。
だがしかし、思い返せば僕自身も、本当にゆっくり作品を鑑賞できたことが、これまであっただろうか?
比較的空いている美術館であっても次から次へと作品を見るうちに、自分自身のペースが乱れて、そのうちやっつけ仕事のように作品の前を通り過ぎていく。もう食べられないよー、みたいな、そんなこともある。
美術の鑑賞にも、それなりの気力、体力がいるものですね。あと、お腹の減り具合にもよるし。
さらに思うのが、
与えられて、うわあー凄いって言えるような鑑賞の経験なんて、滅多にあるものではない。開いた口に飛び込んできて「これは美味い!」なんて、そんな手っ取り早い話。
そういう即効性のある派手な方法で表現を済ませている作品は、どうも僕は受け付けない。そういうなものは他所の分野に任せて構わないと思うのだけど。
などと、いろいろ、文句を言いたくなってしまった。
そんないま、思い浮かんでいるのが、マーク・ロスコという画家。
別に僕自身、この方の作品を熟知しているわけでは全然ないのだが、この方の絵画をそういうものだと済ましてしまえば、「あ、そんな感じね」で済ますこともできるだろう。
だけど懐を持ってちゃんと眼を見開いて、ゆっくり時間を許して眺めることができれば、どれほどの豊かな時間と体験が得ることができるだろう・・・・・などと、書いてはみたが、僕自身も実際の作品を見たことがない。作家の高村薫が日曜美術館で話していた受け売りだ。
でも、その言葉は信用したいと思っているし、実際印刷物で見ても、そうだと思う。
そのうち、川村記念美術館に実物を見に行ってみたいと思う。
マーク・ロスコの部屋があるらしいし。
思うのだけど、ゴッホやピカソなど誰でも良いのだけど、有名な絵画がその辺に転がってて、何もしらない状態で、それを見つけて素晴らしいと思える人はどれほどいるだろうか?
つまり僕が言いたいことは、人の眼というものの不確かさを、もう一度考えて見なけりゃなあー、ということなのです。
僕の写真作品がそれに値するものだなどと言っているわけではありません。
それほど悪いものではないとは、思っていますが。
例えば先にupした上の写真なんかは、今の僕には良いと思えるのです。
撮った以上の何かが在る気がしています。
それは偶然性の産物であり、計算だけで写るものではありません。