日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

のめり込まなければ、やってけない。

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 いざ、朝を迎えると出かけるのが面倒臭い。気持ちの上では、今の撮影の作業が一段落しようとしている。4月にまた写真展をすることになったので、それもあって気持ちに拍車がかかっている。これ以上作品を増やしても仕方がないからだ。お金もかかるし。とりあえず今日のところは、焦らずに楽しんで写真を撮れたらそれでいいかと気持ちを決めて、家を出ることにした。

 何度も心の中で呪文のように唱えているのは、どんなに美味しいものを食べに行ったとしても、どんなに贅沢な生活を送ることができたとしても、写真を撮ることができなければ意味がない、と。

 本や音楽、映画を見たりするのも、全部自分の写真に広がりを持たせたいがためだ。お酒を飲むのも、それほど楽しみではなくなった。

 

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 写真を撮る時は、いつも心を振り出しに戻さなければいけない。シリーズとして撮っていても次に撮る1枚は見えたと思う対象を中心に考える・・・その前に撮った1枚のことは忘れることにする。素に戻って、身体の反応で写真を撮る。

 他の人はどうやっているにか、美術作家だったらどうなのか、音楽家なら、映画監督なら、小説家ならどうやっているのか・・・・僕にはわからない。自分のことは自分独りの「こと」だから。

 時々、会社や社会の一員としてやっていくことに無理を感じる。普通に生きることにも社会の許容の範囲が狭くなっているのに、写真にのめり込む事は他の何とも相容れないものだし、判らないからこそ面白いと思えることだし、そういう人として、多くの人々と同じく、自分の中にも生き辛さは無いはずがない。

 

 ただし、その生き辛さがあるからこその写真行為であるとも言える。浮かんだり沈んだりを繰り返すのは、きっと良いことだ。お金のことは置いといて、まず人間としての刺激が欲しいのだ。

 

 

 あと、もう一つ。 ひとつのことをやり終えたら「次」が自然に見つかる、という村上春樹の言葉が今も自分の中に残っている。

 

 

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