日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

「トポグラフィクス」と、私。その1。

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 長く京都で暮らしていながら、京都という街を写真の対象にすることはこれまでなかった。それは京都の街のイメージはすでに写真としても確立されていて、自分自身もそのイメージに沿って写真を撮る必要があるとは思えなかったからである。

 時がたち、前作のシリーズ『horizon horizon horizon』で夜明けの時間の撮影経験を経て、その延長で京都の街を撮り始めると、これまでのイメージに縛られずに、具体としての街そのものを写真にすることができるようになった。

 言い換えれば、世間一般にある「京都」という看板を自分の中から取り払い、夜明けの青い光の中、個々の表層をひとつずつ写真にしていく。そうして浮かび上がってきた表層の集積に、再び「kyoto」と名付ける、これはそういう作業だと思う。私は日常という常識が剥ぎ取られた街の姿を、ある阿呆となって、レンズを通し繰り返し採集したわけである。

 前年の展覧会ではこのシリーズの一部を展示したが、今回はそれの完全版である。私はこの写真をトポグラフィクスの一環として存在するものだと捉えている。

 

以上が今度の僕の写真展DMに書いたコメント文と作品『鴨川、右岸』です。

ちなみにKGのマップに小ちゃく載るのは、以下の作品『八坂の塔』です。DMでは二つ折りの中面に載せてます。

 

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ちなみに昨日から堀川新文化ビルヂングにDM、置いてます。

近くにお立ちよりの際には、手にとってご覧いただき、ぜひお持ち帰りください。

よろしくお願い申し上げます。

 

 

ところでコメント文に書いたトポグラフィクスとは、どういうことなのか。自分でこの言葉を用いながらも、いまいち捉え方が曖昧で、これまで上手くきちんと説明できたことがありません。ただし実感を持ってこの言葉を使っていることには、間違いはありません。また、この言葉を使うことによって作者の意思が作品に反映されると、写真がより身近に理解していただけるのではないかということを願っています。

無論、鑑賞の際には作品の見方を制限するものであってはなりませんが、今回のシリーズが単なる「私が見た京都」というものとはちょっと違うということを理解していただけると、とてもありがたいのです。

 

そんなわけで、その辺りのことについて今回からしばらく、自分自身がより良い言葉を探すために「トポグラフィクスと私」という文章を書いていきます。

 

とりあえず今の時点で自分の中にあるのは、「人間中心に世界を見ない」という視点です。とどのつまり僕にとってこの視点が始まりと同時に結着点であることには間違いはないと思います。美術的な定義がどうとかではなく、自分自身にとって、ということです。それがなければ、作者の存在など無意味になってしまいますよね。

自分を土台にして、やりたいことをやる。それが自由、美術は自由でなければ!

 

あとは、「その2」で続けます・・・オヤジはすでに眠くて、今日はもう無理なので。

 

 

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