日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

さらけ出している。

 

shop、開設しました。 まだ、とりあえずの段階ですが、よろしく。

 

 

 

「私はあらゆる種類の真実、あなたの真実も誰かほかの人の真実もあると説くが、それらすべての真実の裏には、ただひとつの真実があるのみであり、それは真実が全くないということなのだ。 あらゆる真実の裏には真実がまったくないと私とこの教会は説く!  あなたがもといた場所は消えてなくなり、あなたが行こうと思っていた場所はそこにはなく、あなたがいまいる場所はそこから去らないかぎり善き場所にならない。 あなたの居場所はどこにあるのか? どこにもない。 外の世界ではどこにも居場所はないのだ」 

 フラナリー・オコナー作『賢い血』

 

 確実なものなど、何処にもない。 ここではないどこかを求めても、時は止まらず、またその次に続く。 区切りはなく止まらない。 

 「故郷は遠きにありて思うもの」 

そこを去った後にその場所は自分にとっての善き場所となる。 考えてみれば、当たり前のこと。 無いものねだりなのか。

 

 

 「あなたが行こうと思っていた場所はそこにはなく・・・」

 

 写真を撮ることは、まさにそれ。 思い込みを捨て、全身を使って「見えた!」を掴みとる。 自らの意思のみでの写真を作ることが、どれほど陳腐なことか!

 

 『ほぼ日』で横尾忠則さんは、「時間ではなく回数」と言っていた。 

繰り返しのグルーブ感は気持ちがいい。 とにかく繰り返す気持ちよさ。 やってない人には絶対に理解できないことだ。 言葉では伝わらないんだもの。

 

 ・・・なんて、自分を奮い立たせてみる。 そう思っているのは事実なんだけど。

 

 毎日、何も片付かないまま、また明日を迎える。 ホント生きるって大変ですね。 まあ、ボチボチでいいから、続けることにしよう。

 

 


今日は、『グーグーだって猫である』を観ました。 良かったっす。