日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

気ままに旅気分。

 

 

 外に出ればいくらかは涼しいかなといつもの通りに撮影に出てみたが、ほとんど変わらず。 他とは幾分涼しいはずの樹々に覆われた京都御苑の横を歩いても、やっぱり暑い。 今朝は特に蒸し蒸しする。

 

 足が1ランク丈夫になったのか、徒歩で家から堀川通りを過ぎても、さほど痛みは感じない。 ただ目的地にたどり着くには、近所の街を通り抜けなければならないのが面倒臭い。 スマホ「志ん生」の落語でも聴こうかなと思ったが、今朝は聴かなかった。 でも「志ん生」は凄い。 だって、これさえあればだだっ広い夜明け前の暗い野山をひとり歩いていても怖くはないのだから。  

 あと、外灯が一つしかない田舎の神社の鳥居の下で「志ん生」を聴いて時間をつぶしたこともある。 神社はお墓より怖いと聞く。 そこで聴く「志ん生」の声は、失礼にはならないはずだ。 単にやかましい類のものではないし、礼節さえ感じさせる。 何しろ笑いを産んでいる「志ん生」本人が明治生まれですでにあの世のの人だから、壊れ加減にも説得力がある。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ある程度の数を撮って、一度は終了にしようかとコンビニに寄ってはみながら、やっぱりうだうだ撮り続けるうちに、通りの突き当たりに『千本日活』の赤い文字を見つける。 いつかは立ち寄りたい場所だったけど、これまでちゃんと所在地を調べたことがなかった。 思わぬ巡り合わせに喜んで歩いているうちに、突然、雨が降り出す。 本降りである。

 

 

 

 

 

 上が、午前5時の『千本日活』。 距離を置いて撮っているのは、雨が降り始めて間もないころ、向かいのガレージで雨宿りしながら撮ったから。 でも理由はそれだけではなく、自分の場合、どんな風景でも客観的に撮りたいと考えているからである。 その状況をあるがままに撮った方が面白いと思うのだ。 だから間違ってもエロいポスターを全面に大きく撮ったりはしない。 何を撮るにしても周りの何かは写し込むことにしている。 つまり「見せる」と「見せない」のさじ加減が重要なのだ。 説明する加減というのか、そんなこと。

 

 この2枚の写真に写った状況は、昨日BSで見た1987年の『男はつらいよ』を自分に思い出させた。 映画が封切りされた時点で、「寅さん」自身も作品の中でイッセー尾形が演じるお巡りさんにつっこまれたように、すでにある存在の違和感を作品自体がつっこんでいる。 

 それは『千本日活』と、周辺の町との関係にも似たものを感じる。 建物は新しくてもポスターの内容は変わりようがない。 自分が「昭和」に見た大人の風景と「それ」とは、まだ方向が似通っていたのかも知れないが、「それ」を見せない「令和」の時代とのギャップというか、距離というのか、空間の歪みというのか、その辺は子供の前では冗談にもしづらい気がする。 まあ、風景としては面白いんだけど。 

 

 

 その後も雨を避けながら、そしてカメラを濡らしながら撮っているうちに、アーケードがある中立売商店街にたどり着いた。 落ち着くには、好都合である。

 

 

 

 

 自由気ままに行動していられる時間というのは、何にもまして楽しいものだ。 そしてある一線を通過して波に乗ると、それまでになかった思わぬ「世界」が待ち受けている。 それは他人には感じることのできない自分だけの意識の「浮遊」である。 どこにたどり着くのかはわからないし、その気持ちのよさは口では説明できるものではない。 

 そして、「それ」が写真の出来には比例しなくても、そこに自分にとっての写真を撮る醍醐味というものがあるのです。