日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

山怪、冨田勲、南方熊楠、植田正治。

6月26日午後の撮影。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 田舎出身の人間が「郷土写真」を好むとは限らない。 僕は田舎出身の人間だけど、写真を使った田舎ドキュメンタリーは一般的には理解されやすいだろうが、それが素晴らしいかどうかは別だと思っている。 

 

 

 

 基本、「写真を撮る人」というのはエゴイストだから、自分の望む写真を撮るために相手を利用するという部分は絶対に否定できない。 それは「田舎」という場所を相手にしても同じで、その時・そこに新鮮な感動を得たわけでもなく、ただ世間一般の「田舎」のイメージに沿った風景をそれらしく撮ったところで何の価値があるのだろう。 

 

 表現扱いの写真集なんかでも今は決まったパターンが出来上がっていて、特定の土地の風景写真の中にそこで暮らす人たちのポートレートを差し込む感じは、もう見飽きた感がある。 写真の可能性に限界を感じてしまうのは、否めないねえ・・と思う。 

 それよりもNHK『新日本紀行』『小さな旅』の方が全然良くて、僕もたまに見たりするが、そういうのは映像で見る方がよほど良い。 個人的な昭和の記憶が蘇ったりしてキュンとなる。 

 そして、忘れてはいけない『新日本紀行』の冨田勲が作ったテーマ曲は、本当に名曲だと思う。 あれこそ音楽でしか表現できないことを実現している。

 ちなみに、『小さな旅』のテーマ曲は、大野雄二だった。 大野雄二といえば、赤い背広を着た方の『ルパン三世』の音楽の人というイメージが強かったから、このテーマ曲を聴いて音楽家というのは何でも出来るんだなと感心した。 もちろん創る苦労は無いはずはないのだけど。

 

 そんな折、最近やっと自分も手にして読んでいる『山怪』という本は、日本の「山」が内包する「宇宙」を浮き彫りにして見せてくれた感があると感じる。 故郷に帰れば山へ行くことが多い僕にとっても(この時だけはレンタカーに乗る)、他人事ではない。 単にオカルトという意味だけではなく、捉え方によっては『熊楠』的なことにも通じる気がして、ワクワクする。

 

 そうだ。 写真を撮るときには、撮影者本人が抱え持つ様々な感情が混ざった「ワクワク」感がなければ、表現扱いの写真としては、絶対に面白くはならない。

 

 「くたばれ、ローカルカラー」とは、植田正治の言葉。 鳥取県が生んだ写真家がこういう文章を書く必要があるのだから、写真の誤解というものは本当に多いのだろう。