日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

気持ちよさが失われないように。

 

 

大竹伸朗 NHK BS ドキュメンタリーからの、冒頭の言葉。

 

 「無責任」に 創作とつながっていることは ことのほか気持ちいい

 無目的かつ無意味 無責任であることは 創作の本質とつながっている

 手を動かしながら ふとそう思う 

 

 

 昨日の更新のタイトルを「その人の役割」と堅苦しくしたけど、始めからそんなものはなくて、たどり着いた先がそんなふうというのがいいのだろうな、と思う。 役割なんてなくていいのだ。 自分を苦しめる必要はない。

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 撮影の前にいろいろ算段すると、ろくなことはない。 動き出すのが、面倒臭くなる。 

 

 ここ最近は、そして今朝も、いつも通りに家を出て、しばらく歩いてから「あれ、結局どこに行くんだっけ?」と気づいたりする。 もう、あらゆる方向に行き尽くしているから、今さら新しい場所を求めても何処にもないのだ。 

 とりあえず動いてしまったのなら、あとは自分の身体と足に任せることにする。 とにかく、これまでに撮りためたシリーズに新しい1コマが加われば、それで十分なのだから・・・・と、自分に言い聞かせる。 

 

 「自覚なんていらない」と、大竹さんは、YouTubeを見てても、よく口にする。 そこまで言えてしまうのは、なかなかだと思う。 

 でも確かに、自分が今やっていることはアートの範囲に収まるものだ、と逆算して創作した作品が面白いはずはないだろう、とも思う。 

 やっていることがなんだかわからなくても、そこにその人がやりきったエネルギーが充満した作品なら、それはたぶん OK じゃないか?・・・・だとすれば、どこの誰がそれを否定できるのか! ていう感じに落ち着くことはできる。 あとは、面白いか、つまらないか、それが問題だ。  

 

 あとはもう動くしかない。 じっと考えていても、大竹伸朗のような言葉、またはその心境にはたどり着くことは絶対にない。 理屈じゃないからね。

 

 

 

 

 

 

 昨日撮影した上の写真の絵を描いた人なんて、暇なのか表現欲なのか、よくわからないけど、描かずにはおれないのだろうね。 おそらく閉店しているのであろうお店の表に飾ってあった異質な感じを撮ってみた。 

 

 もしかしたら僕も数年後には、こんな人になるかもしれない。 可能性はある。 ダジャレを言いたくて我慢ができないのと同じように、無意味に写真を撮りまくる「おかしなじじい」になるかもしれないね。 

 

 そこで、ふと思う。

 

 だとしたら、年老いて、長年住み続けた部屋を出ていくときに、描いた物語を全部、お隣さんに処分してくれと言った  ヘンリー・ダーガー  は、これまた謎である。

 自分の中に生まれる物語を自分のためだけに形にすることは、他者に関わることなく、「無目的」「無意味」「無責任」という世界に、限りなく近い。 常人には到底たどり着けない世界の住人。 だから心底、圧倒される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕の写真集は、shop または ホホホ座浄土寺店 にて発売中 です。