日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

考えるのが仕事。


 

 台風独特の天気。 唐突に風が吹き、時折雨が降る。 雨粒が細かい。

 

 昨日と同じで、今朝も土砂降りになることもなく、ひとまずの撮影をすることができた。 タオルと傘をカバンから出したり引っ込めたりしながら写真を撮り、夜が明けるまで粘る。  京都市左京区での話だ。

 

 昨日も午後には用があって出かけた先から歩き、写真を撮る。 街には人がぞろぞろ。 その割に人にレンズを向けることなかった。 あれ、何でだろう? そういう気持ちが湧いてこなかった。 

 

 

 

 

 どうしようもない日常の底に流れるカッコ悪さも、写真は写しとる。 それって美術? それってかっこいいの? それって美味しいの? 何でそんなことしてるの?  

 

 自分も含め人は言葉にしないとその場所での実際を理解しないもので、自分の場合も撮った写真の95%以上はカットしている。 そして「写真らしきもの」だけを、作品として浮上させている。 

 それでも、アンタの写真は必要ないよと言われれば、さて、どうしようか、となる。 人は誰しも、あらかじめ用意されている場所など無いのである。 ある種の人はそれを知るタイミングがないままに、社会を生きていく。 そして自分もそれを知っているかのように、生きていくのである。 つまり忘れてしまうのである。 

 

 でもね、それをやっている人間は、それをやってない人間よりも、知っている、のである。 無意識に身体が覚えていくものなのである。   

 

 切実な気持ちと実際の行動・・・つまり仕事があれば、いくらかは他人を理解できることも可能だと思う。

 

   

 

 

 

 そんなことを書こうと思って書き始めるわけではないのに、書き始めたら、後戻りができなくなっている。 理屈っぽくて・・・。 

 

 昨日は曇天のまま日が暮れて、今日の夜明けは、

 

 

 

 ひとまず、ここまで。