日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

アンディと、ブライアン。

 

 

 

 

 

 



 雨の休日。 今朝は出かけず。 久しぶりにゆっくりして2度寝する。 

 

 昨日と一昨日は合計で60,000歩ぐらいを歩き、出先で写真を撮った。 

 

 そして休み2日目の昨日は午後から雨。 この雨なら街には人も少ないだろうと、京セラ美術館に『アンディ・ウォーホル・キョウト』を観に出かける。 しかしそんな思惑は全くハズレて、岡崎界隈はめちゃめちゃに人が多い。 一旦は並んだチケット購入の列の中で、幾度も断念しそうな心を抑えて何とか入場まで漕ぎ着け、無事に鑑賞して帰ることができました。 

 

 で、その展覧会がどうだったかといえば、

 

はじめから評論などするつもりはないし、むづかしいことはわからないのだけど、デュシャンのレディメイドで、既にあるものを作品として使用する美術が始まったのと同時に、作品そのものの複製も好んで可とする現代的な行為の感覚は、当時の創作と表現の場において相当に大きな変革だったんだろうなというプロセスを、自分自身が初めて感じられたのが良かった、ということです。 

 いや、これまで当たり前に見すぎてて、そんなことすら考えないできたという感じの方が近いかもしれない。 理屈をこねている間は何も変わらないのだろう。 何にも見てなかった、ということです。 

 

 その反面、展覧会に関しては、

 

 そりゃあ、作品はかっこいいし、オシャレだし、新たなる時代に受け入れられたという事実は、今現在の誰が観ても「そっちに流れていくわ」なんだけど、それで写真をカシャカシャ撮ってシェアというのも何だかね、という感じもあったりして、そのな状況を端から眺めていると僕などは何となくガッカリした気分になったりもします。 自由な時代に見えて、反面、美術に自由がなくなっていくような感触が残るのは、何でだろう?  

 

 ただ、じっと、立ち尽くして、ボンヤリ眺めていたい。 せわしなく見るのは、もったいない。 せっかくの雨の日なのに。

 

 

 



 

 

 この三連休が始まる前の夜にビーチボーイズの『ペット・サウンズ』を聴いたのだけど、今朝も気づくと頭の中でその音が鳴っている。 一見ポップで当たり障りがないようなに聴こえながらも、気づかぬうちに忘れられない強い音楽となって心に残る。 今の時代でも名盤1位という評価が多いのは伊達ではないっすね。

 

 有名な話だけど、ツアーは他のメンバーに任せたブライアン・ウィルソンが、ビートルズにも負けないロックの最高のアルバムを作ろうと腕利きのスタジオミュージシャンを集めて作り上げたアルバムだから、ブライアン・ウィルソン個人の創作物的印象が強いアルバムになっているというのが、まず、この話の大前提。

 

 歌詞がどうとか以前に、音そのものが持つ若さ故の美しさ、それと同時に抱える苦悩、そしてその果てに生まれる焦燥感や寂しさ。 そんなんが結果的にこういう音楽になったのだろうけど、そういう評論家じみたことを僕が書くなんて無理な話なので、ここまでにしときます。 参考までに僕が読んで良かった本は、ジム・フジーリ著『ペットサウンズ 』(村上春樹/訳) です。 非常に勉強になった本だと記憶してます。 

 

 それはまあ、とにかく、

そこで僕が思うことは、創作する行為が生み出すものとは、チームになった時に得られるものと、個人の内面から生み出されるものとは、永遠に一致することはないだろうということです。 

 チームで作られるものは分かり易さ、すなわち共有されるものでなくては作業は進まないだろうけど、個人から生み出される行為には、必ず謎がつきまといます。 なぜ、そうでなければいけないのか、またはそういうものになったのか、 そしてどうやってそれを可能としたのか? それは本人にすら、わからないことが多いのです。 僕は間違いなく、個人の内面から生み出されるものを好みます。 お化け屋敷やジェットコースターを作っているのと訳が違うんだもの。  

 

 だから、前回と同じ結論になるけれど、

言葉で表すことができない「その人が抱えているもの」を軽々しく「共有する」なんてことは、その時にあるその個人の「謎」のバランス感覚を失う事にもなりかねないし、絶対に無理な話なんだと、僕は言いたいのです。 

 初期衝動の扱いは、いつも難しい。

 

 



 



 

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