午前6時。 今朝は、阪急「松尾大社」駅で下車。
1年前の大晦日にも嵐山で小雪の舞う中撮影をしたので、今日の大晦日も嵐山で撮影することにした。 夜が明けて空が明るくなるタイミングで渡月橋を渡るために、駅が一つ手前の松尾大社の参道から歩くことにして、計算通りに良いタイミングで渡月橋に到着する。 ただし自分の場合は、渡月橋そのものを撮りたいという訳ではなく、まずそこに立って「何が見えるかな」という感じの意識なのである。
橋を渡って、そのまま、東に向かって歩いていく。
お店の立ち並ぶような観光地は、自分にとって画にはなることがあまりないので、通過し、そのさきの丸太町通をそのまま道なりに歩きだす。
嵐山に来たのは、今日が大晦日だからという理由以外には何もなくて、自分の中で少しだけイベント的な感覚が欲しかっただけなのだと思う。
具体的に撮る対象はいつもと同じく行き当たりばったりなので、ただ路地を彷徨い、行った先で、誰にも意識されないような何かにレンズを向けて、写真にしていく。 そして自らが触発される世界を構築していくのである。
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などと書いておきながら、見つけてしまった『京都幽霊マンション』。 心の何処かで、うすうす期待はしてました。
名前が変えられ、外壁の色が塗り直されておかげで、雰囲気はだいぶ変わったと、どこかのサイトで読んではいたけど、いざ、これがそれだとわかると、自分の中に複雑な感情が持ち上がってくる。
ふだん自分たちが目にする風景には、現実に起きた出来事のすべてを飲み込まれ、一見平然とした表情で人の眼の前に存在しているのだから、幽霊が出ようが出まいが、それはすべて「日常」なのだと思っている。
ただし、それがこのマンションの場合は、名前や色が変わっても決して拭きれないような何かがありそうな感触も残る。 空いたテナントのカーテンの隙間から見える荒廃感だとかは、写真を撮る身としては、けっして嫌いではないモチーフだけど、撮るには気が進まないというか、そんな感じ。
実際、特筆すべき体験こそ僕にはなかったけど、こぢんまりとした住居としてのリアルなサイズ感や、じんわりと湧いてくる「寂しさ」や「わびしさ」、そして、そういう目で見た自分の「後ろめたい」という感情は、下腹にドスンと来るものが残りました。
でも実際に住んでいる人には、それらのことが単純に悪いことに繋がるとは限らないと中山市郎氏は言っていたし、そうであってほしいという希望が、僕の中にもあります。 やっぱり、死んだ人が成仏できないというのは悲しいし、場所や風景が暗く沈んだものになるのは、写真的にも感情的にも望まないし。
そんなわけで、ジロジロ眺めるのも失礼な気がしたから、ほとんど立ち止まらず、できるだけ普通に通り過ぎて、写真を撮ることもしませんでした。 いや、むしろ、ここで、そういう興味本位の撮影をしたならば、今まで撮った写真の意味が全部塗り替えられてしまいそうで、撮る気も湧いてこなかったというのが正直なとこです。
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何となくの沈んだ気分を変えるために、その後、近くのファミリーマートでトイレに入ったら、便座の横のシャワートイレのボタンが反応しない。 「故障」の貼り紙もなし。
なんだか幽霊さんに「おしおき」的なイタズラをされているような気がして、ま、しょうがないかと諦め、トイレを出て、レジでいつも飲んでいる ホットラテ を買って、店を出ました。
その後も、いつものテンションを取りもどすべく、できる限りカメラのシャッターボタンを押し続けて。
歩数はともかく、ここまで撮った写真の「量」がまだ、少ない気がする。
「まだ、足りない」
さっき見てた ETV『no art,no life』という番組の中で、VTR に写ってた人が絵を描きながら言ったセリフです。 カッコよかったので、今日の更新のタイトルにしました。
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今日で今年は終わり。 明日からは来年・2023年の始まり。
あらためて2023年、僕のテーマは、細野晴臣 の「このつぎはモア ベターよ!」というセリフならぬ、
「この次は モア ラッキーよ!」を、狙いたいと思います。 つまんなくて、すみません。
それでは皆様、良いお年を。
酒井一貴(さかい かずたか)