日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

冷めないように。

 前々回に書いた「くたばれ 郷土色」は、間違い。 

 言いたかったのは、「くたばれ 郷土写真」です。

 郷土色はあって当然のもの。 くたばってしまってはいけない。

 今日は休日。 自由の身。

 今朝も「写真を撮らなければ」という欲求だけに任せて、夜明け前に家を出る。

 行先は不明。

 気の向くまま、好きな方向に歩を進め、撮影を始める。

 そうして421枚の写真を撮った。

 

 光が良くて、色の感触が目に心地良い。

 特別な日の、特別な時間。

 どこまでもいつまでも写真を撮っていられる。

 35年も見知った街並みなのに。

 撮影の対象になるのは、そこに在る「めずらしさ」ではなく、

 時間の「凡庸さ」の中に写り込む、撮る人間にとっての「今」なのではないかしら。 

 もちろんその事を言い表すには、別の言い回しもあるだろう。

 とりあえず今の今は、この言葉を思いついただけ。

 

 僕が写真を撮るために必要なものは、通俗の「郷土色」ではなく、

 自分の目で見る「今」なのだと思う。

 いや、僕のみならず、僕が好きな写真家はみんなそのはずだ。

 だから、

 先に書いた言葉、通俗の「郷土色」という材料だけを手がかりに世間様を撮って、

 それを他人様に見せるなんて、大きなお世話な気がしてならないのだ。

 

 水木しげる曰く、「やりたいことだけやりなさい」

 そこに全ての価値と欲求が生まれる。

 5月1日から新作展『 new world 』を開催する直前ながら、

 その次のことをやらずには済まない自分の性分が、なんだか誇らしい。

 いや、いや、いや。

 一旦止まって、冷めた身体で過ぎたことの義務と責任に徹しなければいけないことに、

 辛抱ができないのだ。 

 おけげで今朝も近所を歩いただけなのに、

 本当に幸福な時間を、僕は過ごすことができた。

 僕の心は『 new world 』行きだったわけだ。

 

 あ、もちろん作品を展示するというのは一期一会の場所であって、

 お客さんに対しても、自分の写真に対しても、両方の意味で一期一会の時間だから、

 それは大事にします。

 いや、ホントに作家にとっても、

 自身の作品をちゃんと見ることができる機会は少ないのです。

 そんな贅沢なスペース、僕は持ってないしね。

 旧作展『 Kyoto at dawn 』展は、

 京都・清水寺に続く五条坂CAFE OTOWA にて、5/12まで開催中。

 写真集も販売してます。

 たのんます。

 

そこに在る宇宙。

 現在開催中の『 Kyoto at dawn 』展は、

 京都・清水五条 CAFE OTOWA  にて、5月12日まで。

 

 そして新作展『 new world 』 KYOTOGRAPHI  KG+ 参加展 ) は、

 VOICE  GALLERY にて、5月1日〜5月12日までの開催です。

 ただし、5/6と5/7は休廊日。

 どちらの会場でも写真集販売しています。

 ぜひ、ご覧ください。 よろしくお願いします。

 さて。

 昨日の土曜は会社に出勤、そして日曜の今朝は午前4時すぎに歩き出し、撮影をする。

 

 とくに何も決まらないまま、

    見納めの桜でも撮るかぐらいの気分で、鴨川を歩きだした。

 

    刺激があった大阪の印象は、すで我が身から抜けていき、いまの気分はフラット。 

 写真を撮るという意気込みが「あって、あらへん」という背中合わせの状態。

 

 言葉を先に掲げるのは良くないので、「眼」だけを頼りに、自分の写真を探す。

 写真とは、単純であるが故に、多面的な意味を保有する。

 つまり、個人の生理で、撮る理由はいくらでも変わる。

 

 写真に限らず、私の視点を獲得するということは、

 そこに自由と孤独を手にするということでもある。

 ただし、そのことを知る人は決して多くはない。

 

 独りという視点に立って、常に世界を客観する。

 僕の場合それは、『2001年宇宙の旅』や、『二十億光年の孤独』みたいなこと。

 それと同種の視点が、僕自身の背景となって、常に存在している。

 以前にもここで書いている「人間を世界の中心として見ない」ということは、

 そういうこと。

 

 なので、遊んでナンボという考えは、僕にはまったく無い。

 田舎生まれで、決して自然児ではなかった僕が得たものは、

 そういう「ものの見方」だったらしい。

 今朝みたいに光の色が良いと、意味を必要とせずに、ただそこに在るものが、

 光り輝いて目に写る。

 写真は、日常の奥に潜む何かを、浮き彫りにしてくれる。  

 そんな時の僕のカメラのシャッターは、止まらない。

 

 そんなわけで、今朝は4時間ほど歩いて、567枚の写真を撮った。

 大阪で撮ってたテンションとほとんど変わらない。

 

 鞄からカメラを取り出すまで、僕の頭の中には、なーんにも浮かんでなかったのに。

 

奇妙な世界。

 夜中に言葉を思いついてメモを残し、その後、午前3時半に布団を出て、午前5時半ごろには祇園四条八坂神社で三脚を立てて撮影をはじめてはみたが、全然まったくときめかない。 

 

 それどころか、他のカメラマンとすれ違ったりして、恥ずかしい気分になる。 すぐさま祇園の街に逃げ込んだが、ここも京都色がいっそう濃くて冷めるばかり。

 

 結局、木屋町通辺りでやっと撮影のペースをつかんだ。 

 以前に撮った「素の京都」というテーマをまた繰り返すことは、したくない。 もう自分の写真に「京都」という看板は掲げないことにする。

 くたばれ!! 郷土色。

 

 もともと、そういうものを好んではいなかったが、以前はあえてその問題を取り上げてみたのだ。 それで一段落した。

 

 しかし、撮影対象を世間一般のイメージにあてはめて、後は写真の上手下手だけを問題にする人は、それの何が面白いのだろう。

 「作品らしく」写真を撮ることの馬鹿馬鹿しさ。

 自らの知的野生を駆使しないで、単なる作品らしさや、アートらしさだけを「共有」する・・・そんなことでは、僕だったら地獄行き。

 プロであろうとアマであろうと、写真家が自分の眼で世界を見ないでどうするよ。

 フィルム6×6判のハッセルブラッドで撮っている人。 きっとお金持ちなのだろう。 

 いったいどんな写真が写るのか? 

 桜の写真だってことは、もちろんわかってるけど。

 今日もきっと清水寺界隈は、もの凄い数の人でしょう。 そして多くの人が僕の写真の前を通り過ぎているのでしょう。

 そんな感じで清水五条通りの CAFE OTOWA では、僕の写真作品を展示した『 kyoto at dawn  』を開催中です。

 会期延長で 5/12(日)までとなっています。



 そして、5/1(水)~12(日)は

 大阪の都市と人の状況を撮った新作展『 new world 』が開催されます。

 詳しくは、こちら

 

 KYOTOGRAPHI  KG+ の参加展覧会です。

 よろしくご高覧ください。

 ほんまに、お願い申し上げます。

 

 

甘えるな。

 やる気を出すためか、何なのか判らないが、この1週間、再び大竹伸朗の動画を見ている。 富山県美術館でのトークイベントの動画。 最後の8分くらいで語られる言葉が、心に沁みる。 僕の中にも、悔しさがぶり返す。 

 

 こちらがわかった上でやっていることを、まったくわかってない人々。 さらに、その人々の心情を受け入れられないその時の自分。 その時の一瞬で、感情は極端に揺さぶられる。 ため息が出る。 この上で僕にはいったい何ができるのだろう? 

 頭を抱える。

 嫌な感情は伝染する。 それは良くない。

 不機嫌なままで生きていけるほど、世の中は甘くないのだ。

 続ける以外に方法は無い。 

 それが最良のやり方。

 

 ほぼ日での、田口壮と糸井重里の対談。 これが、とても良かった。

 仕事の合間に少しづつ読んで、元気を維持してた。 

 








 

 

撮るよねー。

展覧会情報、更新しました。 

今後も頑張りますので、よろしくお願い申し上げます。

 いくらでも、何度でも、写真をやり直そう。

 そんな動機で先週から京都の撮影をはじめた。

 もちろん、今度の新作展の準備をしながら。

 昨日、仕事からの帰路、

 夕方の街を眺めながら歩いてみたら、夕方の光と街灯の灯り、それに加えて窓からの灯りに炙り出された街の風景がとても魅力的に見えた。 そこに人が居るという温かみの光。 その時、カメラは持ってなかった。

 で、「朝の光か?夕方の光か?」という問答が僕の中でまたふりだしに戻される。 生前故・篠山紀信が雑誌でしゃべっていたことを思い出す。

 そして今朝、昨日歩いた道を遡ってみる。

 とりあえず朝の光の中で撮影したのだけど、今後は時間を限定しなくてもいいのじゃないかという気がしている。

 じゃあ、何を軸にして写真を撮っていくのか? これまでのように具体的な条件に当てはめて撮影するわけではなく、自分の中で決めた何かに沿って撮影していくためには、何をどうすればいいのか?まだ何も判らない。 だって撮影は2回済んだだけだもの。 

 あ・・・でもまず必要なのは、シリーズのタイトルを決めることだろうな。

 ま、とりあえず、次のシリーズははじまった。

 しかし、これまで何度歩いたたか知れない道を、2024年3月31日の今朝にまた歩いても、未だ新鮮な驚きと幸福感が得られたのである。 その事実に自分でも少し驚く。

 そんなわけで、今朝は271カットの写真を撮った。 






 

告知のこと、この先のこと、これまでのこと、今朝のこと。

 私の現在開催中の個展『 kyoto at dawn

 CAFE OTOWAさんにはいろいろお世話になり、作品の光の種類と当てかたなども工夫していただき、そしてさらに展示期間も延長になり、5/1から始まる新作展と同じく、5/12までの展示となりました。 ありがとうございます。 

 こうなったら、ぜひ両方ご覧ください。 作品世界の幅を感じられるかもしれませんぞなもし。

 準備していろいろ考えてたことも、この場所でいざ書こうとすると、論文を書くみたいな気持ちになって、「そんなの誰も読まないよ」って、自らに言い聞かせることになる。

 今朝は京都で撮影する。

 大阪の撮影は、ひとまず終わり。 昨年5月から始まって、53回、大阪に写真を撮りに通った。 ひとまずそれを締めくくっての今朝の京都。

 曇天ながらも色の感じが良くて、展覧会のその後は何をどうやっていくのか? という模索に徹するという意味では、悪くはなかった。

 いや、別に何か答えがでたわけでもない。 感触が良かっただけ。 何にも言葉にできない。

 『ブギウギ』は、来週で終わり。

 で、今週登場した新人歌手の存在を美空ひばりに当てはめたら、納得がいった。 

 

 これまで、『東京ブギウギ』という歌は美空ひばりだったっけ・・? ぐらいにしか僕も思ってなかったが、今の年齢の自分の立場に当てはめてみたことで、時の流れは無慈悲で残酷なものだと、初めて思い知った。

 親と子の関係に当てはめたら、もっとわかりやすい。 

 

 人の気も知らないで! という言葉はあの時の自分に言い聞かせてやりたい、そんな気持ちになる。 で、それも含めてこっちが受け止めて流していかなければいけないのだな、とそう思う。

 それぞれの場所でね。 ハハハハ・・・・いやあ、もうすぐ春ですな。


  







 

 

続ける凄さ。

 昨日、展覧会に展示するプリントが届けられて、上の写真は「丸められたシートをフラットに伸ばしている」の図。

 

 大きいプリントと、上の箱のは小さめのプリント。

 

 随分昔に買った木製の大きなパネルを、今度の個展で初めて使おうと思っている。 そのパネルを床に置いたら、僕の部屋はもう足の踏み場もない。

 今日は日がな一日、家で作品展示の準備をする。 いくつかの理由で、撮影は今日も休み。

作品を良い形で見せることに全力を注ぐのが先だという気分に変わった。

 まー、展示まで、もう一ヶ月とちょいだもんね。 そりゃあ、あせるわ。 今のところ順調だとは思うけど。

 上の写真は先日観に行った展覧会で購入した作品冊子。

 

 上にトレーシングペーパーのカバーが1枚あって、写真の写りがソフトな感じになってます。 「ざわざわ」とした予感が沸いたので購入しました。

 

 ページの左右にあるそれぞれの絵が互いに関係し合うのが、本という形式の面白いところ。

構成のやり方次第で、絵の大きさも内容も読み手の頭の中で変化する。 

 

 作家の「ともこちん」には、本当に久しぶりに会いました。 作品を作っていて面白いのは、こんなふうに人に会う機会を得られること。 創り続けることが、その人の人生に彩りと年輪が生み出す。

 そういう孤独っていいよね。 それはとても幸せなこと。 寂しくて、切なくて。

 現在開催中の僕の 写真展『kyoto at dawn』、さらに良い灯りのなかで展示中です。 是非観てね。