日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

坂本龍一『未来派野郎』は、33年ぶり。

 写真集を販売してます。

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 実家に残してきたレコード 坂本龍一『未来派野郎』を京都に持ち帰り、昨日聴いた。  33年ぶり。 

 

 当時10代半ばの僕の耳と違って、50歳を過ぎた今の自分の耳には、この音楽は少々うるさく聞こえる。  ドラムの音が甲高い。 80年代の音は少々特殊なので、昨日はミニコンポの音質は、高音を下げ、低音は上げ、で聴きました。 

 時はバブルの真っただ中。  B面の『黄土高原』は、マクセル・ビデオテープのCM宮崎駿がデザインした飛行船が飛ぶ映像のBGMに流れてて、当時、好きでした。 

 

 嗚呼、「未来派」・・・って、果たして何だったんだろう? 

 

 さっきNHKの7時のニュースを見て、今という時代の現実に、もとから暗かった気分がさらに暗くなってしました。 いかりや長介みたく、ダメだこりゃ、というしかない。 

 

 冗談にもならない。

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

帰省からの帰省。

 

 

 

 

 

 お彼岸の帰省。 春以来ぶり。 あんまり帰らないと故郷が意識から遠退いていく。 それは自分のためにもよくない。  

 

 家の裏にある畑の写真を撮りながら、今後の生活のことを想う。 日常の日々は忙しく、数年後の生活の準備など遅々として進むはずもなく、先送りばかり。 人生の最後を自分はどう迎えるのだろう?  自分の周りに積み重なった問題は、どんな形に収まっていくのだろう?  みっともなく惨めなものになりはしないだろうか? 

 

 取り立てて派手でもない、むしろ地味な人生にも、生きる難しさが付きまとう。 誰だって自分のことが一番わからない。 

 

 

 二泊三日。  ともかく、朝夕に、そして昼に車を走らせ、写真を撮った。 台風は滋賀県北部にあまり影響を与えず、青空さえ見せてくれた。 

 強風吹き荒ぶ余呉湖を撮るというのもいいななどと開き直って楽しみにしていたが、そんな感じはひとつもなかった。 偶然に合わせる、その態度が良い写真を撮る基本だと思っている。 できないとわかっていることは、やらないけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 上は、余呉湖の夜明けから朝にかけての風景、そして夕方、日没の風景。 

 

 夕方の写真は、モノクロではなくカラーで撮っている。 黄色い夕焼けの時間。 人の眼は気づかないうちに色や明るさを補正する。 けど、写真はそういうわけにはいかない。 風景が露骨に黄色い。 三脚を立てて低感度で露光時間を長くで撮っているから、比較的自然の色で再現されていると思うが、もしかするとデジタルカメラはより色が強調されたりするのかもしれない。  とにかく、わざとこんな色にしているわけではありません。 撮った、そのまんまです。

 

 「余呉湖」で検索すると、とんでもなく表現され過ぎた写真が出てたりしますが、僕などはそれは如何なものかという疑問があります。 悪口ではありません。 疑問です。 写真のこと、自然のこと。 写真の中に含まれる自らの主観は、結果の話であるべきだと思います。 自然側からすれば迷惑な話ではないかと、僕などは思ってしまいます。

 

 

 

 

 

 とりあえず、今日はこんなところで、おしまい。

小津安二郎『東京暮色』は、失敗作ではない。

 

 

 この前の日曜、録画してた小津安二郎『東京暮色』(1957)を観た。 

 

 小津作品の中では異色で、とにかく暗いとは聞いていたから、興味はあった。 が、観るのを先送りしていた。 

 ふと、映画の冒頭だけでも観ておこうかと思って再生したら、そのまま最後まで観てしまった。 面白かった、というか、良かったのだ。

 

 これを書き出す前に、2013年発行のユリイカ「小津安二郎 生誕110年/没後50年」の中の中野翠『曇天の東京』という文章を読んだ。 この文章の中では『東京暮色』は「失敗作とみなされがち」という評判だったらしいけど、そこまで小津安二郎を熱心に見極めてるわけでもなんでもない自分には、なんら失敗作的印象はない。 たしかに暗いけど、現実の世界の暗さに自分は麻痺しているのか、さほどでもない。

 

 人の不幸は蜜の味などというが、困っている人のその行末を追ってしまうのは、無関係な他人の性なのか。 映画の中でも麻雀卓に群がる大人の言葉はニタニタ笑いの、ああ無情。 それでも父親役の笠智衆が物語の終わりに見せた姿は、やっぱり小津安二郎、と思わせてくれた。

 

 

 

 

 あと、作品の中で人と人がぶつかる暗い局面のシーンでも、小津安二郎はいつものようにサザエさん的な音楽をバックに静かに流している。 悲劇すら、それも人生、という感じで時が過ぎていく。 やはり、すべては「無」なのか。 とりあえず見苦しさは緩和される、他人事なのだから。 でも僕にとってこの音楽の使い方は驚きだった。

 

 デジタルリマスターでノイズ無し。 白黒の濃淡が画面を美しく見せる。 僕は小津安二郎の作品の画面が好きなのだ。 日常的だけど、計算されていて、一分の隙もない感じ。 カラーの作品の方がいいかと思っていたけど、この映画の中の「曇天の東京」は、とてもよかった。 

 

 もう一回観ておこう。 いつになるかわからないが。

 

 

 

 

 明日からの三連休は更新できないので、とり急ぎ今朝更新しました。 

今回の写真は、先日upした残りです。 休みの間は、写真をたくさん撮ります。 SDカードも買いました。 休み明けの更新も、よろしければご覧ください。 

 

 ご覧いただいている方々、いつもありがとうございます。 僕はブロガーではないですが、写真の作家として、生きている間に出来る限りのことをやろうと心に決めています。 

 

 これからもよろしくお願い申し上げます。    酒井一貴(さかい かずたか)

 

 

 

 

 写真集は shop 、または、ホホホ座浄土寺店 にて、発売中です。

 

 

 

考えるのが仕事。


 

 台風独特の天気。 唐突に風が吹き、時折雨が降る。 雨粒が細かい。

 

 昨日と同じで、今朝も土砂降りになることもなく、ひとまずの撮影をすることができた。 タオルと傘をカバンから出したり引っ込めたりしながら写真を撮り、夜が明けるまで粘る。  京都市左京区での話だ。

 

 昨日も午後には用があって出かけた先から歩き、写真を撮る。 街には人がぞろぞろ。 その割に人にレンズを向けることなかった。 あれ、何でだろう? そういう気持ちが湧いてこなかった。 

 

 

 

 

 どうしようもない日常の底に流れるカッコ悪さも、写真は写しとる。 それって美術? それってかっこいいの? それって美味しいの? 何でそんなことしてるの?  

 

 自分も含め人は言葉にしないとその場所での実際を理解しないもので、自分の場合も撮った写真の95%以上はカットしている。 そして「写真らしきもの」だけを、作品として浮上させている。 

 それでも、アンタの写真は必要ないよと言われれば、さて、どうしようか、となる。 人は誰しも、あらかじめ用意されている場所など無いのである。 ある種の人はそれを知るタイミングがないままに、社会を生きていく。 そして自分もそれを知っているかのように、生きていくのである。 つまり忘れてしまうのである。 

 

 でもね、それをやっている人間は、それをやってない人間よりも、知っている、のである。 無意識に身体が覚えていくものなのである。   

 

 切実な気持ちと実際の行動・・・つまり仕事があれば、いくらかは他人を理解できることも可能だと思う。

 

   

 

 

 

 そんなことを書こうと思って書き始めるわけではないのに、書き始めたら、後戻りができなくなっている。 理屈っぽくて・・・。 

 

 昨日は曇天のまま日が暮れて、今日の夜明けは、

 

 

 

 ひとまず、ここまで。 









 

 

台風と南座。

 

 

 

 もうすぐ 京都にも台風がやってくる予報だけど、時折吹く風は強めという以外、今朝はまだ変わった様子はない。

 

 午前5時ごろ通り雨が降りはしたが、折り畳み傘を広げて撮影を続けた。 ちょうど祇園を歩いていた。 でも今朝は "The Kyoto" を撮る気力は全くなくて、そそくさと通過。 そのままJR京都駅まで、14,294歩を歩きはしたが、「それ」以上の出会いというか喚起させるものもなかった。 撮った写真は、171カット。 歩いた歩数の割には、燃費が悪い。

 

 

 

 

 いったい、何を、どうやれば、良い作品はできるのだろう?  それは創作するすべての人にとって永遠の謎だと思う。 経験を積む・・・回数をこなす・・・とにかく、心と身体が冷めてしまわないうちに、また「次」をやろうと思う。 

 

 そんなことを書いておきながら、上の写真は夜明けの『南座』。 

"The Kyoto" の場所だけど、鴨川対岸の南西から撮った『南座』の写真など、商業的には没だろう。 京都という看板を押し除けた僕にとっての「京都写真」。 ダメもとで撮ったりすることも多い。

 

 

 台風は雲の模様を、おもしろくしてくれる。 写真は撮れなかったけど、昨日の帰り道の頭上に見た雲は良かった。 青い濃淡の雲の、その一部分だけが太陽の光を受けて、沈んだオレンジ色に染まっていた。 本当にわずかな時間だけで、あの感じの空は夕方でなければ見ることができないと思う。 

 雨が降り出すかもしれないけど、今日の夕方は、それを探しに歩いても、いいのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 

 

気持ちよさが失われないように。

 

 

大竹伸朗 NHK BS ドキュメンタリーからの、冒頭の言葉。

 

 「無責任」に 創作とつながっていることは ことのほか気持ちいい

 無目的かつ無意味 無責任であることは 創作の本質とつながっている

 手を動かしながら ふとそう思う 

 

 

 昨日の更新のタイトルを「その人の役割」と堅苦しくしたけど、始めからそんなものはなくて、たどり着いた先がそんなふうというのがいいのだろうな、と思う。 役割なんてなくていいのだ。 自分を苦しめる必要はない。

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 撮影の前にいろいろ算段すると、ろくなことはない。 動き出すのが、面倒臭くなる。 

 

 ここ最近は、そして今朝も、いつも通りに家を出て、しばらく歩いてから「あれ、結局どこに行くんだっけ?」と気づいたりする。 もう、あらゆる方向に行き尽くしているから、今さら新しい場所を求めても何処にもないのだ。 

 とりあえず動いてしまったのなら、あとは自分の身体と足に任せることにする。 とにかく、これまでに撮りためたシリーズに新しい1コマが加われば、それで十分なのだから・・・・と、自分に言い聞かせる。 

 

 「自覚なんていらない」と、大竹さんは、YouTubeを見てても、よく口にする。 そこまで言えてしまうのは、なかなかだと思う。 

 でも確かに、自分が今やっていることはアートの範囲に収まるものだ、と逆算して創作した作品が面白いはずはないだろう、とも思う。 

 やっていることがなんだかわからなくても、そこにその人がやりきったエネルギーが充満した作品なら、それはたぶん OK じゃないか?・・・・だとすれば、どこの誰がそれを否定できるのか! ていう感じに落ち着くことはできる。 あとは、面白いか、つまらないか、それが問題だ。  

 

 あとはもう動くしかない。 じっと考えていても、大竹伸朗のような言葉、またはその心境にはたどり着くことは絶対にない。 理屈じゃないからね。

 

 

 

 

 

 

 昨日撮影した上の写真の絵を描いた人なんて、暇なのか表現欲なのか、よくわからないけど、描かずにはおれないのだろうね。 おそらく閉店しているのであろうお店の表に飾ってあった異質な感じを撮ってみた。 

 

 もしかしたら僕も数年後には、こんな人になるかもしれない。 可能性はある。 ダジャレを言いたくて我慢ができないのと同じように、無意味に写真を撮りまくる「おかしなじじい」になるかもしれないね。 

 

 そこで、ふと思う。

 

 だとしたら、年老いて、長年住み続けた部屋を出ていくときに、描いた物語を全部、お隣さんに処分してくれと言った  ヘンリー・ダーガー  は、これまた謎である。

 自分の中に生まれる物語を自分のためだけに形にすることは、他者に関わることなく、「無目的」「無意味」「無責任」という世界に、限りなく近い。 常人には到底たどり着けない世界の住人。 だから心底、圧倒される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕の写真集は、shop または ホホホ座浄土寺店 にて発売中 です。
 


 

 

 

 

 

 

その人の役割。

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 宇宙。 四角く黒い闇の横に並んだ二つの星は、「清明神社」と刻印されている。 ちなみに、この宇宙はSECOMに見守られている。 

 

 今朝、撮影した1カットめである。 

なんでもないものが、自分には何か違ったものに映ったり、または別のものを想起させた時、僕はシャッターを切る。 それは写真を撮る方法の一つ。ほんの出来心、思いつきに過ぎない。 だからメッセージも何もない。 最初から変わってないと思う。 それを恥ずべきことと今は思わない。

 

 例えメッセージなどを持たなくても、「何か」がある写真。 そういう写真を自身の身体を通じて見つけ出す行為こそが、僕にとって写真と遊び続けられるための一つの方法だと思うし、また僕にはそれしか目指す場所が見つからなかった。

 

 仮に何かのメッセージを掲げてみても、取って付けたことには始めから無理がある。 表現する人間が謙虚さを見失うことは危険。 そのうち行き場をなくすことにもなりかねない。  それは置いといたとしても、写真で世間に何かを訴えるというのなら、まず、自分自身をも勘定に含めた上で行動しなければいけない。 

 僕は単に、「写真」を撮っているだけの人なのだ。 素朴な姿勢の中に全てはあると考える。

 

 

 先週のETV『日曜美術館』、 ゲルハルト・リヒター『ビルケナウ』の特集。 

 リヒターは、ホロコーストでの死体の償却現場を決死の覚悟で撮影された写真、それを絵画として複写し、いつものやり方で塗りつぶす、そうやってこの絵画を締めくくらせた。 

 それを聞いて、なるほど、そういうやり方もありなのか、とひとまず僕はそう思った。 

 しかし独りの画家が抱えられる責任と行動を考えたときに、この作品での、その謙虚さは重要な意味を持つ。 たしかにあの作品は売買の対象にはならない。

 

 などと考えていたら、やばい。 シリアスに負けてしまいそうになる。 とりあえずそういう事実を知った上で、僕はその場所に群がるのは止そうと思う。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大竹伸朗 HNK BS の番組の冒頭で、作家の言葉が画面に映し出される。 著作からの言葉なのだろうけど、どの著作なのかは、僕は知らない。

 

「無責任」に

創作とつながっていることは

ことのほか気持ちがいい

無目的かつ無意味

無責任であることは

創作の本質とつながっている

手を動かしながら

ふとそう思う

 

 

 最近、このブログで、僕は大竹伸朗という名前をよく出しているが、その理由はこの言葉にある。 この言葉を聞いて僕は大竹伸朗という人に対するイメージを一新し、この画家の人間性と創作の本質を一気に理解することになった。 

 

 

 ・・・・と、ひとまず、ここまで。 また、この続きらしきことを更新します。 今日と明日は連休なので。

 

 

 

 

 現在の夜明け・・というか、空が青くなるのは、午前5時過ぎた頃。 今朝は3時半に家を出て電車に乗らず、目的地らしきところまでの徒歩移動。 

 14,555歩を歩いて、235カットの写真を撮る。