日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

2012-08-01から1ヶ月間の記事一覧

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最小限の風景

慣れ親しんだかどうなのか、期間としては永く住んだ街。 そこに、どれほどの意味や重みがあるのかなんて、判らない。はじめから、「京都」という言葉に、意味は求めてなかった。 たぶん求めてきたのは、「風景」であり、日常の「くり返し」なのだと思う。 だ…

青い空は、つづく。

頭の中が、ぼんやりとした日曜日。 一乗寺の恵文社で、マイロウィッツ(Joel Meyerowitz)の『A SUMMER'S DAY』の古書をみつける。\3150なり。購入。表紙はこんなの。 社会性のうすい写真は、軟弱なのかしら? 今後しばらく、考えてみようと思う。

日な日な余波は華やか歩く、3

「日な日な余波は華やか歩く」というのは、 息子がキーボードを打って、たまたま出来た言葉です。偶然とは言え、とてもきれいな音と字面だったので、 ここで使用しています。とくに意味はありません。

日々の画

友人・知人ではなくて、他人なのだけど、街でなぜだかコトあるごとに見かける人がいる。 昔よく行ったお店の店員だった人。今はもう、そのお店はない。僕の記憶にたしかにその人は残っている。だから見かけると「あ、また」と思う。 そして気になる。 まるで…

「恥ずかしい」について。

劇団大人計画主宰の松尾スズキ氏は、新たに加わった劇団員にはまず、 「恥ずかしい」ということを覚えてもらう練習をすると、どこかで聞いたことがある。表現するというのは、だいたいにおいて、自己中心的な行為だから、恥ずかしい。 写真を撮ることだって…

陽が沈む。

帰省した故郷では、とくにこれと言った出来事もなく、 撮るべき何かもよく判らず、ただ時間の流れに身をまかせてみた。グレーに沈んだ風景と、時間。 空っぽの気持ち。通り過ぎていく夏のにおい。ここにあるのは、日が昇る夜明けの時間ではなく、たしかに陽…

断片について、2

味わいをもって、その人の写真を見る。ことあるごとに、本やネットで思いついては眺め、その人の言葉も目にしたりして、その写真家のことを知っていく。 見る僕の中に、その人の「像」が作り上げられていく。そこでまた、写真を見る。 写真家の写真には、た…

空ネタ

言葉にできない感情を、綺麗に、または切なく写してくれる「鏡」のように、空を撮る。 何て、安易なんだろう。別にそんな大した感情が自分の中にも、在るような、無いような。 そんな自分のことは関係なく、夕暮れ時に向かっていく空には、ただ魅かれてしま…

断片について、1

この写真だけを見ても誰が撮った写真なのかわかる人は少ないだろう。写真家はおもて立った作風に限ったものばかりを撮るのではなく、「犬も歩けば」で、おもしろいものを見つければ撮る。 発表するかしないかは、その次の話。それは美術作家のように、コンセ…

京都、夏、2012年

京都らしい雰囲気を味わうようなこともせず、住み続けて20年。 京都らしい写真も撮らず、とくに意識もしない京都で、意識をするのは、夏の暑さばかり。

行間におもうこと、光の景色。

夏の朝。 何かに気持ちがかられたような気になってはみたものの、 どうすればよいのかも判らず、ボンヤリとする。 お湯をわかし、お茶をいれる。 その間、少し人を想ってみる。 画になるような思いやりは、何もなく、ただうらやんでいるだけの自分に気づく。…

夏の雪だるま

早朝、明日ギャラリーに個展の搬入しなければいけないのに、まだ何もできていない、という夢を見て 目が覚めた。 あのドキドキと言ったら、たまらない。夜中、ふと目が覚めて、今やっているギャラリーでの写真のこと、これから作ろうとしている写真集のこと…

平日の朝、夏。

見知らぬ街、その4

ああ、「どこか」というのはあるんだな、みたいなことを思う。見えるものと見えないものの境界をさまよう感じ。 「そこ」が在るのはあたり前なんだけど、その行ったり来たりを眺めてる感じ。眺望をたどる、というのは、自らの意識の地平線をたどるようなこと…