日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

写真と言葉について、3  森山大道その4

ふつうの写真家とはどんなものか、考えてみるとよくはわからないが、やっぱり森山さんという人は一般的な写真家とは異なる気がする。
職業的な写真家の匂いはしない。それでいて、もっとも写真的な人。
どんなふうに写真とかかわっているのか、僕らは氏の文章を読むことで知ることになる。その上でまた写真を見る。
ヘタすると紙くず同然の1枚が、こつ然と存在することで、写真の1枚として存在感を現しはじめる。
それが、とても写真的な気がする。

写真を撮る人間が、写真とどうかかわっているのか? それを見せることは必要だと言えるかもしれない。
つまりそれが写真とは何なのか?どんな意味があるのか?という疑問をもつことにつながると思う。
それでいて、作品そのものを説明する言葉はいらない。

これがもし絵画ならば、言葉はなくてもその1枚で存在することはできるのかもしれない。
でも写真はそうはいかない、のかもしれない。

写真をどう扱うかによって、その種類や方向性が異なってくるように、言葉に対してもどのような扱いをするのかは、注意深くする必要があるということらしい。

どちらにしろ自覚的な必要はあるし、そうなれば言葉を発する場面はいずれはやってくるのだろう。