日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

3時33分。





そうよ、わたしは不完全な世界に完全を求めていたのよ
そして、おばかさんなことに、それが見つかると思っていたの

というカペンターズの歌詞が、TVを見てたら、すっと自分の心の中にに入り込んできた。

メロディーと音の響き方は、その言葉を言わせる表現者の意思を方向づける。
さびしいのだけど、心地よい。

それは、つまり、美しいということなんだろう。

正直言って、写真は音楽のようなモノには、なれないと思う。
でも、それは「僕」は「彼」にはなれない、「私」は「あなた」ではないと同じ事だとも思う。

自分の道をさがして、結果、違う印象のものが残ったということではないかしら。
とは言うものの、音楽のもっている「すばらしい何か」にはなれない。

3時33分の写真、2枚。
午後の日差し、見上げた部屋の壁に時計あり。
それだけ。何の感動もない。
それが、ただ写っているのが、(時間を確かめたというのではなく)ふと、眺めたというのが、なんとなくいいと思えたという、それだけのこと。
それだけの写真。