騒々しい写真を撮る人もいれば、静かな写真を撮る人もいる。
それは写真家の生理から来ると言えば、たしかにそうだろう。
自分の場合は、間違いなく静かだと言える。
とても自覚している。
自閉気味の性格だから、仕方がない。
そんな自分には、もう撮れることは無くなってしまったのだろうか?
よく、わからない。
写真というのは、静かなものだと思っている。
それを「死」などというつもりはないが、写真には「孤独」だとか「内省的」だとかは、どこまでも付きまとうものではないかしら。それをわざと演じるのは、違うと思うが。
ふだん、にぎやかな行動をとる人が、静かな写真を撮れば、それは注目をあびる。
でも、最初から最後まで静かな人の写真には、何の面白みもない。
自分の場合、まさにそれにあてはまる。
写真を見せて。
人のつまらなそうな表情を見るのはつらいものだ。
そうではないとしても、気弱な今の自分には、他人の眼がきびしい感じに写ってしまう。
もう写真なんて、やるべきではないのか、そんなことも考える。
実際、最近は写真から逃げていた。
そんな中で、最後の可能性、希望を信じなくもない。
夢なんかではない。もっと地ベタから見る不変的な写真に対する欲望。
自分自身のことなど関係ない、自己表現ではない、突き放したカメラの眼。
できるだけ、そこに近づきたい。
そうすれば、少しはマシなものができるのかもしれない。