日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

動かない。



毎朝、子安観世音という地元では誰もが知ってるお地蔵さんの前を通る。たしかそれは、鎌倉時代からあるらしい。バイクの信号待ちでその前に止まる時などは、心の中でおはようございますと挨拶をする。返事はない。

2メートルくらいのそのお地蔵さんは、何も言わないし、おそらく何もしてくれない。それでも誰にも親しまれている。

もとは大きな岩であった「それ」を誰かが人型に彫ったのは間違いないし、そうしてお地蔵さんになった。そこから来る日も来る日もそこに居続けて、今もそこに居る。

動かないということは、見ている側に何かを思わせる。はっとさせられる何かがある。
それは人が死んだ時の穏やかな顔を見た時にも感じる。

この世の中は何だか判らないものに満たされている。それを理屈で片づけるのはつまらないし、物足りない。不十分だ。理不尽がまかり通るなら、その理不尽にも何か「意味」が在るはずだ。でもそれは人が思える範囲の「意味」ではない気がする。(空海密教は知恵と努力でそういうものを理解したひとつの方法なのかしら。昨日見た『ブラタモリ』でそう思った。)

なんだか判らない。でも、穏やかであってほしい。






写真だって、止まったまま動かない何かだ。自分でやってても、ごく稀にそれが写る時がある・・・・気がする。