日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

そこに在る宇宙。

 現在開催中の『 Kyoto at dawn 』展は、

 京都・清水五条 CAFE OTOWA  にて、5月12日まで。

 

 そして新作展『 new world 』 KYOTOGRAPHI  KG+ 参加展 ) は、

 VOICE  GALLERY にて、5月1日〜5月12日までの開催です。

 ただし、5/6と5/7は休廊日。

 どちらの会場でも写真集販売しています。

 ぜひ、ご覧ください。 よろしくお願いします。

 さて。

 昨日の土曜は会社に出勤、そして日曜の今朝は午前4時すぎに歩き出し、撮影をする。

 

 とくに何も決まらないまま、

    見納めの桜でも撮るかぐらいの気分で、鴨川を歩きだした。

 

    刺激があった大阪の印象は、すで我が身から抜けていき、いまの気分はフラット。 

 写真を撮るという意気込みが「あって、あらへん」という背中合わせの状態。

 

 言葉を先に掲げるのは良くないので、「眼」だけを頼りに、自分の写真を探す。

 写真とは、単純であるが故に、多面的な意味を保有する。

 つまり、個人の生理で、撮る理由はいくらでも変わる。

 

 写真に限らず、私の視点を獲得するということは、

 そこに自由と孤独を手にするということでもある。

 ただし、そのことを知る人は決して多くはない。

 

 独りという視点に立って、常に世界を客観する。

 僕の場合それは、『2001年宇宙の旅』や、『二十億光年の孤独』みたいなこと。

 それと同種の視点が、僕自身の背景となって、常に存在している。

 以前にもここで書いている「人間を世界の中心として見ない」ということは、

 そういうこと。

 

 なので、遊んでナンボという考えは、僕にはまったく無い。

 田舎生まれで、決して自然児ではなかった僕が得たものは、

 そういう「ものの見方」だったらしい。

 今朝みたいに光の色が良いと、意味を必要とせずに、ただそこに在るものが、

 光り輝いて目に写る。

 写真は、日常の奥に潜む何かを、浮き彫りにしてくれる。  

 そんな時の僕のカメラのシャッターは、止まらない。

 

 そんなわけで、今朝は4時間ほど歩いて、567枚の写真を撮った。

 大阪で撮ってたテンションとほとんど変わらない。

 

 鞄からカメラを取り出すまで、僕の頭の中には、なーんにも浮かんでなかったのに。