日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

いつも何かを。




浮き足立った自分を鎮めたくて何かを、例えば音楽だとか落語だとかを探してみるのだけど、今は何だかどれも違う。
どれも鎮まらない。そもそも、なぜ鎮めたいのか。常に鎮んでいるのが僕は心地が良い。
祭りは見ているだけで十分だ。外から眺めてお酒でも飲んで、気が向けば写真でも撮っていたい。
お祭りの音が聞こえてくる場所で、そういう気分だけを感じて、僕は自分の「仕事」をしたい。
「仕事」というとお金儲けに直結してしまいそうだが、僕はそれを拒みたい。ビジネスでまかり通る「面白い」は全然面白くないのだ。
何なのだろう? ああいうのって。

死んだ友人は、昔、坂本龍一のアルバム『B-2 UNIT』が好きだった。アナログレコードの時代のこと。
それを先日、初めてちゃんと聴いた。1980年という時代の状況に合わせてなのか、それに抵抗してなのか、そんな産物という感想を僕は持った。彼が話していた『XTC」なども、これでつながった。しかし、フェラ・クティという名前は彼の口からは聞かなかった、と思う。

今さら、このアルバムを聴くことは、少しむなしいかとも思っていたが、まあ、仕方がない。通過儀礼だ。
彼は今どこにいるのだろう? 無論、あの世の住人なのだけど、いや、住人という考え方は違う気がする。心というカタチは大きなものに溶けて帰っていった。そんな感じか、僕の勝手なイメージだけど。
最近の僕はスティーリーダンを聴くことが多い。そんな今の僕を彼はどう思うだろう?
いつもどこかで、そんなことを考えている。