日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

写真と言葉について、4 その3

ティルマンスのこのインスタレーションは、かっこいいという単純な話だけではなくて、作家の世界観の現れとしてこうなっているわけですが、そこで思うことは、こうしてその展示風景を写真で見る時に1枚1枚の写真がタッているということ。
つまり、写真が群れをなしていても、1枚1枚の内容が見えるということです。
自分でもこれをちょっとマネてやってみようとすると、あれっと思ったことがありました。

その理由をぼんやりと考えてみると、写真に何が写っているのかが、はっきりしているということに気づいたのです。つまり、1つの物に対してレンズを向けて、それが写真に写っているわけで、曖昧さがないのです。

ティルマンスの写真は、ひとつの写真の中にその時間や物語が内包しているような、そういう意味での作品を展示しているわけではなくて、もっと即物的な、世界の断片としての1枚であって、最初から1枚で表現しようというものではないということです。
単純な話のようですが、それは大きな違いで、写真表現の大きな分かれ道をたどってきた結果だろうと思うのです。
だって、日本のカメラ雑誌のコンテストでこの中の1枚を応募しても、入選することはたぶんないでしょう。

例えばこの1枚。

これは脱ぎ捨てたズボンをドアにかけてあるのを撮った写真ですが、ふつうそんなの写真には撮らないでしょう。撮ったところで、作品だと言えるまでに価値観を成立させることは、日本ではなかったでしょう。

その辺をたどると、ベッヒャー夫妻の『給水塔』シリーズなどに思い至るわけです。

やはり同じドイツでのことで、写真におけるタイポグラフィーという手法の用い方(被写体の選び方や捉え方)も身近だったりということなどを想像すると、そんなに遠い話ではないなと思ったりするわけです。
ティルマンスの写真はスナップ的な撮り方だけど、そういうところで他のドイツ作家とつながっていたのだなと、あらためて気づかされました。

さらにそこで思うのは、写真というだけで「何でもかんでも一緒くたに考えてはいけない」ということです。

ティルマンスのズボンの写真のタイトルは、“stripped”(2003)。「裸にされる」とか、そんな意味らしいです。
ここでも、やはりタイトル無しにこの作品は成立しえないことでしょう。

むづかしい評論などいろいろありますが、僕自身はそんなことを考えたということです。