日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

プライベートな写真、その2



一般的に「私がそこにいた」ということが、写真を撮るということだから、
ある意味すべては「私写真」だとも言えてしまうが、
やはり「私写真」とは、私が写るということを、とても自覚したものではあるのだろう。

アラーキー氏も、当時の主流だった写真に対する反発から、そういったお題目を掲げて戦ってこられたのだし(そのことは、とても尊敬します。)、今は今で、また「私」が写ってない写真もまた、写真的だという感じがある。

「ポストカード」を集めているという写真家は多いし、
現代美術で扱われる写真に対する感覚も、直接、「私」ではないものを収集し、私のものに(作品)にしている。

ファウンド・フォトが、意味あるものとして浮かび上がってくるなんて、
時代って、ほんとにめぐっているのだなと、それがまた自分の中にもあることが、不思議な感じだ。

そこで、あらためてプライベートなことやモチーフを題材にすることは、今、どのような意味や価値があるのだろう?