日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

プライベートな写真、その3



プライベートなモノが写った写真と、プライベートの写真。

この2つは似ているようで違う。
見せることを前提とした写真と、そうでない写真。

「私写真」と言われるものは、個人的なことが写ったものでも、見せるという前提で撮っている。
すでに、その写真家にはプライベートな写真という括りは、ほぼ無くなっている。
撮るか、撮らないか、その選択でしかない。

そうすると、プライベートの写真というのは、結局、写真家ではない人の撮った写真ということになる。

見せる価値のあるプライベートであるならば、それなりに面白い作者である必要がある。
興味深い人でなければならないだろう。
自分のプライベートを、物語にするようなものだから。

しかし、そうでないやり方もある。
自分のコトやモノを、対象として突き放す、つまり客観視するということ。

(昔の絵画、印象派などでも、個人的なモチーフはよく扱われる。それと同じ感覚かもしれない。)

これは、撮る自分の身辺を単純化し、ひとつのサンプルにしてしまうというやり方である。
僕は、今つくっている写真集で、そういうことをやっている。

だからか、それはどこからどこまでが、プライベートで、どこからどこまでが「公」なのか?
よくわからなくも、なっている。
結局、個人的なものは、自分の息子の「顔」だけなのかもしれない、とも思う。
あとは、すべて、過去という時間に流されてしまっている。
息子の顔も成長して、変化する。

写真は見えること以外は、写らない。
それはそこにカメラがあるからで、カメラの後ろには、必ず、写そうとしている人がいる。

作為が有る無しにかかわらず、写真は存在する。