とどのつまり、写真の表現はプライベートな自分の意思や生理に左右されるしかない。
その裏返しとしてのポストカードであって、まずは、自分ありき、自分でジャッジするという意思が頼りとなる。
それが注文仕事であったとしても、何を、どこから、どう見るのか? 一瞬のジャッジの連続。
そういう偶然と必然がかさなって、結果、ポストカードができる。
できてみれば、自らとは関係ない、「外」の写真。
でも、その在り方も、逆に写真だなあ、と思う。
外は夏。
家の中も夏。だから、あつい。寝苦しい。
オリンピックもはじまり・・・・、あんまり関係ないけど。
稲川淳二の怖い話が、聴きたくなってきた。
でも最近、あの人の話し方は聞き取りにくくなった。
昨日は、亡くなった友人の命日。
すでに1年が過ぎた。今も彼にまつわる様々なことが、自分の中をぐるぐると、まわってる。
そんな感じで、8月に向かっていく。盛夏。