日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

断片について、2


味わいをもって、その人の写真を見る。

ことあるごとに、本やネットで思いついては眺め、その人の言葉も目にしたりして、その写真家のことを知っていく。
見る僕の中に、その人の「像」が作り上げられていく。

そこでまた、写真を見る。
写真家の写真には、たしかに作風がある。その写真で得た「感触」が僕の眼に残る。
写っているものの「好み」と「色合い」、「質感」、そして「画面構成」など。
気になる要素は、なんだかいろいろある。
それを全部含めて、魅力になる。

写真集を眺めることの良さをたどると、そんなとこだと思う。
「見る」ことが少し敏感な人とって、写真集というものは魅かれる存在となるだろう。
そこで重要なのは、いちばん素直なところを受け入れるということだと思う。
見る場面においても、美意識を振りかざすと写真は見えなくなってしまう。

       ※

写真においての「断片」というものに魅かれる。
「見る」ということは、目の前のことなのだから、しょせん、「全部」ではない。
写真で世界なんて総括できないのだから、始めから「断片」と考えた方が自然。
それよりも具体の画として、写真を撮るなり眺めるなりすると、たしかにそれは在るということが味わいを持って感じることができる。それが写真の魅力だと思う。
昔からタブロー化することを否定する人、作風にする人、どちらもいるが、僕には写真を絵画的に作ろうとする人は信じられない。妙な作品タイトルをつけたりして画家をきどる。
まったく判ってないのだと思う。でも実際いるのだから、現実は恐ろしい。