作品を見てもらうには、初期衝動だけの表現だけではダメなのが、現代。
ことばにならない衝動が作品としてカタチになるのは重要ことだけど、
作り手にもそれなりの自覚が必要とされる。
僕も「ことば」が必要だと、作品を見せる際にはよく言われる。
でも、予感だとか、記憶だとか、情緒だとか、そんなのが渦巻く頭で撮った写真は、
なんら操縦できない乗り物と同じで、時間が経たないと、それが何だか判らない。
ことばはいつも、もどかしい。
理由なき、何かを紹介するためのことばなど、そう簡単に出せるものではない。
出せたとして、パターン化してるものだったりすると、今度は嘘くさい。
うわー、めんどくさい。
でも、今度は見る側に立ってみると、それは何だか思考のゲームみたいで、気持ちいい。
現代は、作り手も鑑賞者にサービスしなければいけない時代。
作る側も鑑賞する側も、互いに「きれい」だけでは物足りないし。