日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

まぬがれない。

 来月、5月3日からの個展などのお知らせは、こちら。 

 

 

 昨夜も坂本龍一・追悼番組を何本か録画する。 WOWOWでも一本だけ録画。 

 

 

 誰しも、自分も、生きているものはいずれみんな等しく死ぬのだから、近親者や友人ではない限りそこまで死を悲しむ必要は無いのだが、作り上げられた作品に関しては、今というタイミングは逃さず、観たり聴いたりはしておきたいという気持ちは有る。 

 

 人がひとり死ぬたび、そこにあった時間と存在は突然、空洞になる。 それは人間に限定された時間のことで、宇宙、自然という時間の中では、ほんの一部のこと。 その移り変わりを人は「時代」というのだろう。

 とどのつまり、人類規模で見れば、平均してどれくらいの間隔なのかわからないが、ひっきりなしに人は死んでいるはず。 その意味で言えば、時代は絶え間なく変わっている。 いや、移行しているという言い方の方が正しいか? 

 本来、それは平等で、そこに特別など、在りはしない。 

 

 それでも、今という時間を愛おしく感じる瞬間はある。 それは人にとって宝物だ。

 

 

 

 

 

 今朝はサッと布団から出ることができず、慌てずボチボチと支度をし、玄関のドアを開けた時には、空はもう夜明けの青だった。

 

 少しだけ歩いたらすぐに三脚の足を伸ばし、他所んちの何の変哲もないガレージの、半分開いたシャッターを撮った。

 なんでこんなの撮るのだろう? 今日も撮る理由などはいちいち探さず、ただ即興的な作業を繰り返す。 下手な思索などには意味もなく、陳腐な理由など言葉にしても気力が萎えるだけ。

 「価値あり」と「下らなくない」の瀬戸際での、意味不明な何かを作ることこそが、いちばんに困難なことだと思うし、近道はない。 だけどその時にこそ、自分自身の中の野生らしきものによって解き放たれることは、この上なく、いちばんに嬉しくもある。 

 

 「お金儲け」の思考に泥酔していては、決して生まれない価値と面白みが、そこには存在する。 でも、結果儲かったみたいなことの中には、そういうことも含まれている気がする。

 

 あさましさ、いやらしさは、一番の敵かもしれない。 その人の本質が問われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなこと言って、思考の翼を広げていられるうちはいいけど、今現在の僕は展覧会の展示作業準備の大詰めの最中である。 

 具体的に言うと、今は搬入・設営までの前準備の段階で、実際に、どうすれば自分の意図が伝わるように作品を見てもらえるのか? 作品の配列、順番、額装やその他の展示法を考え、段取りよく的確に搬入するにはどうしておいたら良いのか、そのための準備作業の時間である。 

 

 さらに加えれば、

 具体的作業を辛抱強く成し遂げ、観る人に何らかの印象を提示できるよう、それを自身にとっての頂点にまで押し上げないといけない、大きな(?)課題が頭の上に乗っかっているのである。

 なのに、て言うか、だからこそ、決められてないことも、未だある。 ヤバめだわ。

 

 人並みに、僕にとっての創作行為も苦痛を伴う。 でも、ひょっとしたら、もしかしたら、いいのが出来上がるかもしれないね、という期待もはらんでいる。 

 何とかなるかしら。