日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

雑に済まさないで。

 

 

 

 

 さっきまでETV『日曜美術館』の牛腸茂雄の特集を見てた。 もち、録画済。 

 

 1990年中頃に季刊誌『デジャヴュ』でその存在を知り、まもなく新宿で桑原甲子雄との2人展を見たりして、僕自身も写真の世界に飲み込まれ始めた最中の出来事だったし、その印象は強かった。 現在は『デジャヴュ』を含め3冊の写真集を所有している。 

 代表作の『SELF AND OTHERS』は、2~3年前にやっぱり持っておこうと購入した。 重版されているから書店で手に入ったのだけど、今アマゾンで検索したら、そんなに高かったっけってぐらい、えらく価格が上がっている。 ふ〜ん。

 

 

 

 

 

 

 

 牛腸茂雄の作品の内容は、それを見たい人がそれぞれのやり方で知るべきものだから僕には何も言えないが、作品というものは何にせよ、ジャンル分けで語るのはあんまりいいことではないな、と今はそう思っている。 

 その人が微かな音でも聴きとる感覚をもっていさえすれば、気がつかないうちに強い印象がその人の中に刻まれる。 それは良くも悪くも道を左右する。 そこから旅が始まる。

 そうであるならば、もっと丁寧に物ごとを見るべきで、判断なんて後回しにしといていいように思う。 もともと答えなどは無い。 考えるという行為自体がすでに、「理解する」その範疇に含まれているのであって、だとしたら牛腸茂雄の作品だって、アラーキーにも森山大道にも篠山紀信にもない、微かながらも長く響き続ける音を放つ写真であっても不思議ではないはずだ。 写真というものも場所によっては「上手」「下手」だけの偏見に満ちているから、インパクトの強さだとか、そんなものは捨ててしまって、いっそのこと創作としての平板で広い世界に出て考えたく思う。 

 話を戻すが、いずれにせよ作品もまずジャンルありきで考えると、その微細な音は聴こえなくなってしまう。 

 

 



 

 TVでは、牛腸茂雄と同期の写真家・三浦和人さんのモノクロプリントの暗室作業の模様が映っていた。 現役で稼働するモノクロ暗室。 

 ほぼ日の『牛腸茂雄を見つめる目』は、まだ全部読み終わってない。

 VTRでは、現像液の温度調整に、1日で氷が8キロ(だったかな?)必要とナレーションしてたけど、20代の頃、僕はどうしてたっけ?・・・忘れてしまった。 

 夏の暑い時でもそこまで厳密に温度を合わせないで、現像時間の方か、露光時間を短くしてプリントしていたのだと思う。 あの頃、氷を買ってた記憶もないし、ましてその時々の暗室には、エアコンも冷蔵庫もなかった。 

 暗室作業は面倒臭かったけど、やり始めたら夢中にだったし、若かった頃にありがちな暇な時期も、暗室という場所があったからこそ、やり過ごせた。 

 

 

 そして、同志だった人の大切な遺品である作品をその後もプリントし続ける三浦和人さんの暗室にもエアコンがなかった。 汗を拭きながらのプリント作業。 楽なことではない。 

 自分のことなら現像液の温度設定もほどほどで済ますことはできても、死後その評価が高まる牛腸茂雄の作品となれば、そうもいかない。

 

 僕の勝手な想像だけど、その仕事の中には、単純に果たすべき責任の重さと、それ以上の個人的なことには足を踏み入れない心遣いの両方があるのだろうけど、「自分が故人のことを一番理解している」などということは絶対に言えないからこそ、他人には言うに言われぬ自らの内なる嫉妬のような心だってあると思う。 全く無いとは言えないはず。

 そうでいながらも故人の作品と死後もなおずっと関わらなければいけないのは、なかなかにしんどいことだと思う。 そんなことを書くのも、なぜならば僕の中にも幾らかそれはあったりするからなのです。  

 

 

 今朝の撮影は京阪電車に乗って「墨染駅」で下車。 午前5時の始発の先頭車両に乗りながらも、三条駅から客は多くなった。 

 その後、12,557歩を歩いて、266カットを撮影。 良い出会いが多かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

で、なんか最近、更新に時間がかかっています。 文章の内容が重たい。 

なるだけ、軽くしようと心がけてはいるのですが。

読んでいただけると、本当に嬉しいです。

 


そして、私の写真集は shop または、以下で発売中です。

 

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