日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

常識で写真は撮れない。

 

 

 

 

 

 言葉にしなくて済むから、写真はいい。

 

 その時に「見えた」ものを、「ひょっとしたら何か、写るかも」という期待を込めて写真にする。 その時に、言葉はいらない。 

 それだけに、今朝は撮影をしたかった。 写真を撮りたかった。 そんな欲求が高まっていた。 だけど、雨。 少々の雨ならそのうちやむだろうで出かけはするが、今朝の感じではそれも無理。 

 

 今回upした写真は、4月9日の午後にとったもの。 今のところの最新作ではある。 別にどうでもいいことだけど。

 

 

 

 

 

 

 話を戻せば、モヤモヤ・イライラしていた訳だ。 そんなモヤモヤ・イライラの解消も、どちらにしろ自らの表現行為に良い影響を及ぼすことがないことは、自分でもわかっている。

 

 怒りは大事かもしれないが、うわべの苛立ちは、うわべの表現にしか繋がらない。 敵対という感情は、片一方の論理でしかない。 そんなものは、あっという間に色褪せてしまう。 実のところ、そうじゃないものが僕は欲しいのだ。

 

 昨日の午後、仕事中に立花隆の言葉を読んだら、いてもたってもいられない気分になってしまった。

 

 思い返せば、この訳のわからない未知の現実の中で、いったい自分は何を何処まで知っているのだろう? 

 こういうことを考える時、僕は勤め先の仕事にまつわることは、自動的に数には入れないようにしている。 あくまで自分の「生」を費やし、それに対して実際行動している中でのことに限って、考えることにしている。 経済がやりたいことではないんだもの。 

 

 とりあえず自分は、「ものを知っている」などとは恥ずかしくてとても言えない。 反対に「ものを知っている」という人間の大概は疑わしいと思っている。 自らを知らないのだ。

 

 振り返って我が身を見れば、疑いの眼は案外根深いところにある。 それは写真の撮り方や撮る対象にも現れていると思う。 何でも一度ゼロにしてから再構築する、みたいな方法でものを見る習性が自分にはある。 伝わっているだろうか? 

 

 ダークな世界には足を踏み入れはしないが、それを意識することは、綺麗事で写真を撮らないということに繋がっている。

 

 また、ドキュメントやコンセプトなどと簡単に口にできるほど、自分はものをわかっているとは思わないし、写真というメディアにそれが可能なのか? という疑いも、未だに消すことはできない。

 それが僕の写真を、わかりにくいものにしている。

 

 そりゃあ、世界は輝いているだの、人間は素晴らしいだの、ご冥福をお祈りしますだの、音楽は素晴らしいだの、元気をもらえただの、などと言っていられたら、いくらか社会に参加している気持ちにはなれるかもしれない。

 でもそれも常識的なことでしかなくて、そこに乗っかって写真を撮ることが、僕にはできないのだ。

 

 何故なんだろう? 

 

 一瞬考えて、すぐに答えは出る。 それは「自然」というものに起因している。

 

 最終的に全ては「無」に帰る、そういう直感がある。 きっと、生まれ育った環境の中で、僕自身が感じとったことだと思う。

 

 今朝は、考えを言葉にしていくうちに、えらいとこにたどり着いた気がする。 雨で写真は撮れなかったけど、それはそれで成果を得られた。

 

もうすぐ、次の展覧会。 そのお知らせは、こちら。 

展覧会のDMは、ただいま配布中です。 

配布先は、追ってお知らせします。

 

そして知人の方には、この休みの間に発送します。 

よろしくお願いします。

 

「フォーッス!!」