自分の写真の多くのモチーフは、自分の身近なものが写った写真が多い。
それは、普段の時間の中で「見えた」という感覚を素直に受け入れているためである。
写真を撮るのに、何か用意するのではなく、常に自分が見えてる目の前の世界を受け入れてるのだ。
結果、それは散漫なものになるし、意味のわからないことだって多くなる。
日本の写真は、全体的に、そういう傾向にあるらしい。
それは、良い面と悪い面をもっている。
原因は、日本語という言語の在り方にも起因してるらしい。
僕自身の作品を説明する時は、いつも逆説的な言い方になってしまう。
これが、自分自身の考えを複雑化してしまう原因だと言える。
先に述べたように、普段の時間の中で「見えた」というモノ事をそのまま、作品化しているわけだから、
その写真には、身近なものが写ることが多くなってしまう。
それを編集する時、どうせやるならと無駄なものを省き、さらに身近なモチーフばかりを選ぶことになる。
だけどそれは、セザンヌが描いた絵画の中の果物に、具体的な意味はないというのと同じ側面があるし、
しかしまた、それだけで済ましてない部分もある。
今作っている写真集のモチーフのひとつは、息子。
そこに息子という言葉の意味が、まったくないとは言い切れない。
それは、鑑賞者に作品のテーマをストレートに伝える妨げになりかねない、危険なやり方にも思える。
自らが誤解される、または限定されるのが怖いのか?