続けて、タルコフスキーの『鏡』を見る。今度で5度目くらい。好きなのだ、この映画。
何が好きか、いい加減、自覚しないといけないと考える。
理由 その1. 画面の色と質感、光と闇が好き。
理由 その2. 大人の苦い記憶や幼少時の感傷的体験がモチーフとなっているから。
作品の内容をひとまず置いといても、この映画の画面はそれだけでずっと眺めていることができる。同時に眠気も誘うのだけど。
青っぽい緑の薄暗い闇に人の顔と、オレンジ色の炎、雨、そして風。
そう、この「風」が特筆に値する。風が奥からこちらに向かってくるのが写っているのだ。
それがどうしたと思う人も中にはいるだろう。でもそういう方は、この映画だけではなく、この世界の見え方もまったく違うだろうから、いくら説明しても理解はしてもらえないだろう。ただ、そういうのは「ある」、ということなのだ。そしてそれが映画の中に封じ込められていることは本当に凄いことなのだ。
ついでに言うと、この映画は1975年公開で当然フィルムの作品だから、今のデジタルの画面のようにクリアさはないが、だからダメだなんて愚かな考えは持たない。この映画の中には、自然の空気が内包されている。フィルムならではの質感によって。
そしてそれは、いちいち神々しいという感覚にさせないのが良い。
屋内のシーンでは、窓の光から闇へとカメラがさまよい、また別の光にたどり着くようなシーンが多く、その闇の中の曖昧な時間がが妙に日常的で、妙に刺激的。子供の頃の家族がいない家で独り過ごす時間、という感覚がよみがえったりする。
そのひとつ。お父さんの部屋で主人公の息子(つまりタルコフスキー自身? と言っていいのか わからないが )が、留守番をしている時の場面。
そのテーブルに突然現れた婦人とのしばらくの会話の後、部屋を間違えてノックしたお婆さんの相手をしているうちにいなくなっているという不思議な場面。
テーブルに残る紅茶のカップの湯気の跡が消えていくシーンは、他では見たことのない類いのもの。
不思議なことも次の瞬間に流されていく感じは、この世界のことでもあると思う。
感覚的、詩的、音楽的、そういう映画。
この先何度でも見るであろう作品です。