日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

「実際」を撮る。

 

 プリンターで写真をプリントしながら、録画してた『ラストエンペラー』を見る。

 

 公開当時、1987年に京都の、たぶん美松劇場で見て以来の2回目。 高校生の当時にはわからなかったことも50を超える年齢ともなれば、ほぼクリアに見える。 1987年に見た時よりすげ〜、だった。 いや、本当によかった。 

 映画の表現の一つとしてある、歴史やその人生の要所要所を切り取り、2~3時間ほどに短縮して作品を作り上げるという手法。 それが、単なるダイジェストにならないで素晴らしい何かに変化させる不思議さを、今さらながらに『ラストエンペラー』を見て思った。 理屈だけでなら誰だって理解はできるだろうが、やはりそれは「その表現者」が持っているマジック以外の何ものでもないと思う。 

 

 

 

 

 で、映画を見ながら、プリンターから出てくる自分の写真を見て気がついたことがある。 自分の写真の色の感覚は、これまでに見てきた映画に影響を受けていたということ。 初めて言葉になって、気がついた。

 

 映画の中で作られる、朝・昼・夜のそれぞれの時間や、その時々の空模様など、太陽からの光の射し方は状況によって様々だから、画面の色もその場面によって、当然変わってくる。 

 あらためてそういう目で映画を見ると、CM的な写真のように標準的な色の画面というのは、ほとんどないかもしれない。 全体的に青かったり黄色かったり、人工的な照明の緑色だったり、そういうのが結構ある。     

 

 

 

 

 写真家は写真にだけ影響を受けているわけではない。 こんな当たり前のこと、今気がついた。 

 『ラストエンペラー』の撮影は、ヴィットリオ・ストラーロ という人。 この人、好きだった。 コッポラ『地獄の黙示録』もこの人のカメラ。 光の発色と影の深さが僕は好きなのだ。

 

 で、映画のラストの溥儀が消える場面をみて気がついたこと。

 この場面はそれまでの場面と違って、画面が荒い。 明らかにそれまでの画面と見え方が違う。 それはたぶん、フィルムを変えているのか、または照明の当て方を自然光に近づけて抑えめにしてあるのか、もしくはその両方か、だと思う。 何でそうするのか。 要は、劇的な場面と現実的な場面の違いを、画面でも演出する、という事なんだろうと思う。

 

 それに気がつくと、最後の場面だけ紫禁城の外壁や柱の朱色は、それまでの歴史を物語る前とは違っていて、ひどく色褪せて見える。 逆に考えると、劇的な歴史の物語を撮る前には、城全体を細部まで一度きれいに磨き上げたのではないかという想像にも至る。 

 

 考えてみれば、歴史の最中にあるリアルタイムの紫禁城を映画の中に存在させなければ、作品は説得力を持つことはない。 その労力を惜しむことは、作品のクオリティーをも左右する重要な仕事だ。

 そうなるとスケジュール的には、最後の現代的な場面をまず最初に撮っておいて、で、その後に歴史的な場面をじっくり撮りました、っていう感じだったのかもしれない。 想像でしかないけど。

 

 今ならCGで簡単にできるという考えもあるだろうが、それは誤魔化しというのを前提しているから、やはり、実際そこに在るものを撮るという説得力に勝るものはないと、僕などは、そう思うし、その方が好きでもある。