日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

休みの日は、しょうがない。

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会社は今日から3日間の休み。

今朝も午前4時ごろ撮影に出る。とくに期待せず、トボトボ歩いてみる。

昨日の朝、5時から裏の草むしりとおもての掃除をしたので、午後はずっと眠かった。

いろいろ考えてしまい、布団でじっとすることができなかった。

 

南へ。

吉田山の坂を登り、そして下る。丸太町通りから岡崎界隈を撮りながら歩く。

そして三条。良いのが撮れたかどうか? 気持ちだけは一段落する。

 

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写真の時間は、日常の自分から逃れたい。

それとは裏腹に、撮っている最中に自分の中にしんどい記憶が蘇り自らを苦しくさせることも多々ある。

にぎやかな街を歩き、日常を忘れたいというのは人情。

だから京都市内を南へ向かって歩くことは自然と多くなる。

 

写真にはその人の何が写るのだろう。

撮りたいものなんて、ホントは別にないよ。

目に入ってきた時に初めて自分がどう反応するのか、それだけでしか無いような・・。

でもその初めてというのが重要な気がする。実際は初めてじゃないんだけど。つまり、そういう気になることができるということ。見つけることができるということ。

知っている気になっていることが返ってわからないという感覚を鈍らせている。

言葉によってそれを「知っている」ことで人間という存在はすごいと同時に、どうしようもなく愚かで不自然な存在になってしまう。それはもう宿命だ。

 

素晴らしいという感覚だけで写真をやるのは、すぐに飽きてしまって、簡単に写真を辞める事になる気がする。

続けていられるだけ僕には才能があるんだよ。たぶん。わからないを少しでも知っているのさ。

自分は、そう思っている。

 

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