日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

だんだん明るくなってくる。

 先日、11日に撮った写真の続き。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつも夜明け前に、その日思いついた街に出向いて、まだ暗い路上に三脚を立て、スローシャッターで写真を撮り始める。 

 

 歩き出してしばらくの間は、闇の中にボンヤリ浮かぶ明るい外灯や部屋の窓、光る看板なんかに引き寄せられたりして撮影しているが、そのうちに朝が近づいてきて、遠くの空が青くなり始める。 目の前の景色は、だんだん明るくなっていく。

 

 歩く度に現れる街の細部や表面の色・形など、自分の眼が惹きつけられる何かを、刻々と変わっていく光の色を頼りに、写真という平面に変えてカメラに収めていく。 

 

 その時、その瞬間、構図と露出はめっちゃ考える。 

 自分は今、何に惹かれていて、それをどう撮れば、それが感じられる写真になるのかということを判断する。 それは考えるというより、ほとんど直感。 もちろん、何パターンかを押さえて撮っておくけど、だいたいにおいて、最初撮ったカットが良いことが多い。 

 

 そして、そういう時の三脚を使っての撮影というのは、撮っている自分にも気づかない意外な構図を見せてくれるからおもしろい。 構図一つで、いかに自分の考えが狭いのかということを機械や道具は教えてくれる。 無意識にカメラを置いた時に見せてくれる構図というのは、不思議に一番おもしろく感じる。

 

 とにかく、

 決めすぎた構図というのは、撮っていて本当に面白くない。 その一枚で完結させないやり方が自分には合っていると思う。 物語や状況の説明みたいなことを拒否して、起承転結の「結」の部分を、あえて作らないようにする。 

 

 で、画面がスカスカな写真は、撮ったとしても選ぶことはしない。 スカスカというか、カスカスな感じ。 密度のない、潤ってない感じの写真は、嫌なのである。

 

 そういう生理的な習慣は、何かを作る人なら誰でも持っていると思う。 自分自身の内面に帰れば帰るほど、またはお金がからんでこない自由な瞬間ほど、それは強く表われる気がする。 自分のやりたいようにやらなければ、意味はない。 

 

 何でそれを撮るのか? それを撮って何の意味があるのか?  そういう自分自身に対しての問いは、撮影の回数を積み重ねていくうちに自然に払拭されていく。 と、いうことを最近になって、初めて気づいた。  

 理由はわからないけど、  ああ、そういうことだったのかあ、っていう感じ。 思うに、それこそが創作の自由というもの。 

 意味はないけど、存在する価値はある。 その時こそ、そこに新たな意味も生まれてくるのである。