日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

ノー・アート ノー・ライフ。 

 

 

 

 

 

 

 上の写真は、昨日の午後に撮ったもの。 天気がいまいちで、光の色もよくなかった。

 

 撮りながら歩く途中、岡崎・蔦屋書店で、ルイジ・ギッリの『PUGLIA.TRA ALBE E TRAMONTI』という写真集を見る。 好きな写真を見た後は自分の目が変わって、その後の風景の見え方も変わるものだ。 時々そうやって、やる気を出したりしている。 

 ただ、岡崎の蔦屋書店では写真集の人気がないのか、写真関連の棚が「スタバ」のテーブルの隣り合わせの見つかりにくい場所に追いやられている。 このところの岡崎はお祭り広場みたいな感じだから、落ち着いて本を探す人が少ないのかもしれない。 残念である。

 

 

 

 そして今朝。 

 昨日と違って今日は調子良く家を出て、京阪電車に乗った。 七条駅で下車。 そこから京都タワー方面、烏丸通りに向かって歩く。 

 

 振り返ると自分は京都の断片ばかりを撮っていて、京都という街の中心を成すような「重石」的な何かを撮っていないような気がする。 そんなこともあって今朝は、京都の中心の烏丸通りを、とりあえず撮ってみようと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こういうのが良いのか、どうなのかはすぐには自分でも判断はできない。 

 でも、自分の撮影する作業の中には、アジェの写真ような意味も含んでいると自覚しているので、それはそれで躊躇なくやろうと思っている。 

 写真家の中にある撮影行為の思索というのは、内面の吐露というつまらないもので終始することはないから、自分にとってもこういう撮影は写真家のあるべき姿の一つだと思っている。 ただ、こういうのばかりをやっていると自分の撮影が雑になってくることも同時に感じる。 自分というパイプを素通りしていくだけのような、引っ掛かりの無さ。 自分という人間の芯が溶けて、ヘロヘロになっていく。 だから僕は、スナップ的な「発見」写真も挟んだりする。

 

 陽がのぼり、今度はスナップ的な撮影が増えていく。 三脚を片付けて、手持ちの撮影。 結局今朝は、380カットの写真を撮った。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 今朝は撮っているうちに、時が止まり、ここが何処かも意識されなくなって、変な気分になっていくのがわかった。 自分が写真によって「何か」に化かされていった。 

 しかし、いくら化かされたところで何者にもなることができない、というのが自分の現状である。 

 

 

 人の役に立つのか、迷惑をかけるのか。 

 

 恥多き人生は、この世の常だと思う。 誰に限らず。

ETVの   no art, no life は面白い。 これが本当だと思う。