日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

わからないと、わかっている。

 先日購入した、大竹昭子随筆録『超二流の写真家』(カタリココ文庫)は、大竹昭子さんが書いたアラーキーの本。今僕は久しぶりに「荒木本」を読んでいる。

 そして思う。やっぱりアラーキーは凄い、と。

 悪くいう人も中にはいるけど、写真を見れば判るはず、ちゃんと見ればね。 派手なとこだけに目を奪われてはいけない。 どんな場合であっても、「まず写真ありき」だもの、アラーキーは。 エロであっても単純なエロでないのは、「まず写真ありき」を感じるから。男だってそんなに単純ではないのだ。

 しかしそれも写真の歴史の中に程なく組み込まれていくのであって、変わって旬の若い人がすでに表通りを歩いているのだから、鑑賞する若い人にはそれ以前の経緯など冷静じゃなければ見えなくなってしまうのだろう。 音楽でも、映画でも、過去の作品が見えない人には全く見えないし、本人が見たいと思わなければ、見ないのは当たり前なのである。 アラーキーでさえも例外ではなくなる日がいつか来るのだ、きっと。

 

 

 

 

 話は最初に戻って。

 この本を買ったのは、写真家アラーキーのことを他でもない大竹昭子さんが書いているという理由からである。

 大竹昭子さんの文章には写真に対する疑いの視点が失われずに書れていて、写真を撮る行為の根っこの部分をはし折らずに、大竹さん自身の正直な視点から得た写真の楽しみ方が書かれていることが、僕にはとても信用に値する言葉として写るのである。 よくわかっているからと言って知識の蓄積を売り物にしてないところに、良い刺激を感じるのである。

  

 同じ意味で詩人・富岡多惠子さんの『写真の時代』と言う著書もとても面白い。

 この本には詩人の目に写った写真の不可思議さが歯に衣を着せぬ言葉でバンバン書かれている。 それは読んでて気持ちが良いくらい。 この本に書かれたような事柄は、カメラマンを職業としてしか見てない人には面倒臭いだけの言葉なのかもしれないが、しかしそういう人には、自身の署名が写真の中に写り込んでいるような作品を撮ることはできないだろうと、僕には思える。 

 そう、自分に対する疑いや配慮のない表現は、鑑賞するにはなかなか厳しいものがある。技術を売りにした中身のない写真は、富岡多惠子風に言えば、辟易とさせられる。 普通の感覚を失わなずにいることは、とても重要な才能のはずなのだ。

 

 話は逸れるが、ついでに書いておきたい。

 

 一人歩きした配慮の無さはどんな分野や職業、個人、または一国を代表する人物にもつきまとう。 これは良いことではない。 とくに無責任な大統領などはどこまでも行ってもみっともない。 見てて絶望する。 そして最悪の状況を想像してしまう。 こんな事態になるとは、1年前には誰も想像もしてなかっただろう。 ロシアや、それに類する国家の代表の頭の中では、それは昨日今日に突然湧いてきたことではないのだろうが、自他ともに欠落した配慮の無さが現実として走り出すと全く歯止めがかからないのは、とてつもなく恐ろしいことだと、ニュースを見るたび感じる。 考え直してくれないものだろうか。

 

 自然は、雨が降ろうが、地震が起きようが、なんであろうが、それは全部自然のことだ。そこにはすべてを受け入れる秩序と均衡がある。 そうなると人の世界も滅びるのは自然の一環として当然なのだろうか。 そんなことも放ったらかしにして我が世の春なんて呑気なことをプーチンという人は望んでいるのだろうか? ホンマ、信じられへん。

 

 

うちの庭は平和だぞ。もうすぐ毛虫が歩く季節だ。

 

 

 


僕の個展、始まってます。

 

明日からGWなので、僕もギャラリーにいます。 よければ見てやってください。