ウラの顔。 『飛び出し坊や』にもそれはあった。 今朝撮った写真。
展覧会を開催してた最中の変なテンションはおさまり、いつも通りの休日の朝。陽が上り、少し明るくなった頃には雨音も止んでいたので、近所を撮り始める。 ちょっとのつもりが、6,730歩を歩き、結局ぴったり200カットの写真を撮ることになった。
展覧会では、たくさんのお客さんと話をした。
こちらからご意見や感想を伺うと、思いもよらず良い言葉が返ってくることが多く、僕が日頃くりかえし行う撮影行為の核となるもの、自ら抱え持つ写真の「意思」というものが、案外うまく伝わっていることを知ることができた。
それには156点という多くの作品を展示したことが、少なからずの要因になったではないかと思う。
1枚の写真が次の1枚が支え、また次の1枚がまた次の1枚に、という連環が良い相乗効果を産んだのだろう。 その際にわざとらしさを生まないよう撮っては選び、撮っては選びをくりかえし、展示した作品の100倍近く撮った写真の中からの156点を作ったという行為は、間違いではなかったのだと思う。
当初は自信こそ、そんなにあるわけではなかったのだけど、個展の最中は不思議とポジティブな行動ができたのは、多くの写真を撮ったことで得た自信で、その大丈夫感は自分でも意外だった。
あと、最後に来られたお客さんに「ニューカラー」の影響を指摘されたことも、嬉しかった。 実際、その通りだからである。
「ニューカラー」や「トポグラフィクス」という流れの中には、単純に写真的な色や物の捉え方だけではなく、冷静な視点の置き方や位置ということがある。
どちらかというと、日本的な環境からのそれは生まれにくく、広い大地を眺めた時のクールな感覚がその二派にはある。
例えば、音楽で言うところの、フォークミュージックでの日本とアメリカの違いみたいなこと。湿度的なことだろうか。それは案外、自分の写真を生みだす上で得た、重要な要素となっている。
僕のようなストレートな写真はもはや時代遅れかも、という不安はずっとある。実際、タイプの違う写真が席巻するのが、現代の写真だ。
加えて、国際人などとはほど遠い環境で生まれ暮らしてきた自分には、もはや未来はないのか、などと根拠があるような、ないような悩みもずっと自分の中にある。
正直に言おう。そういう世界には少なからずの疑いはある。 でも今は、まあ、いいさ、である。 だって、おじいちゃんへの道は、自我からの開放という自由への道である。 あとは、心と体の健康に気を使って歩くことができたら、まあ、いいさ、なのである。
今は、画家・野見山暁治さんが僕の希望だ。