日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

新たに写真は撮れても、心はそうは簡単には変わらない。



 午前3時30分頃に布団を出て、出かける仕度している間に雨がザーッと降りはしたが、間もなく止み、今朝はめでたく撮影に出かける。 

 

 と、気負ってはいるが、今朝の目的地が思いつかない。 とりあえずいつもの道を歩いているうちに、空が青くなり始めた。 三脚の足を伸ばし、カメラを取り付け、無闇矢鱈に撮り始める。 身体と意識を温まれば、あとは何とかなるだろうという考え。

 

 

 

 

 結果、435カットと数は多く撮ったものの、たいした成果もなく、「まあ、こんなもんか」という感想。 「負けたくない」という気持ちと「どうにもならない」悔しさのジレンマ。 

 

 安藤忠雄は言っていた。 暗闇の中を走るのが人生さ。

 やるだけやったのだから、やらなかったよりはマシさ、という歳を重ねたことで得られる悟りにも似た、あきらめ。

 でも後になって、今朝撮った写真の中から、突如浮上してくる1枚があるかもしれない。 写真の良し悪しは、すぐにはわからないところもある。

 かと言って貧乏臭く、無いところからほじくり出すことにだけはならないよう、気をつけはするけどね。 ま、その時になれば、こんなことも忘れるくらいに事態も変わっているだろうけど。

 

 家に帰ってから、昨日録画しておいた NHKスペシャル『羽生善治 52歳の格闘〜藤井聡太との七番勝負〜』を見る。

 僕は特別、将棋にのめり込んでいる人間ではないが、番組予告を見て、同い年である羽生善治の現在の心境には共感するものがあるんじゃないかという予感はあったし、番組を見て、確かにゾクゾクと来るものはあった。 

 羽生善治がカメラに向かって話していることは、僕にも痛々しくも伝わり、逆に笑ってしまったりもした。 中堅層が味わう苦心の時間のことである。 

 僕と違って、向こうは天才だけど。

 

 



 



 ところで、

 

今朝も写真を撮ったから、こうして昨日に続き更新をしてはいるものの、自分の考えというものは、毎日毎日簡単に上書きされるものではなく、とくに昨日書いた文章は、久々に自分にとっての発見みたいな部分もあったので、すぐに過去のことにしたくなく、あらためて、ここにその部分を再録しておこうと思う。

 

 それもこれも「わかって欲しい」という一心から来るものである。 やりたいことをやってナンボの人生だ。 好きなようにやらせてもらう。

 

 でも、もうわかったよ、という方は無視してもらっていいし、「読んでない」だとか、初めての方とかには、以下の文章を書くに至るまでを昨日の更新分から読んでもらえると、それもまた僕はとても嬉しく思います。 

 

  

 振り返って我が身を見れば、疑いの眼は案外根深いところにある。 それは写真の撮り方や撮る対象にも現れていると思う。 何でも一度ゼロにしてから再構築する、みたいな方法でものを見る習性が自分にはある。 伝わっているだろうか? 

 

 ダークな世界には足を踏み入れはしないが、それを意識することは、綺麗事で写真を撮らないということに繋がっている。

 

 また、ドキュメントやコンセプトなどと簡単に口にできるほど、自分はものをわかっているとは思わないし、写真というメディアにそれが可能なのか? という疑いも、未だに消すことはできない。

 それが僕の写真を、わかりにくいものにしている。

 

 そりゃあ、世界は輝いているだの、人間は素晴らしいだの、ご冥福をお祈りしますだの、音楽は素晴らしいだの、元気をもらえただの、などと言っていられたら、いくらか社会に参加している気持ちにはなれるかもしれない。

 でもそれも常識的なことでしかなくて、そこに乗っかって写真を撮ることが、僕にはできないのだ。

 

 何故なんだろう? 

 

 一瞬考えて、すぐに答えは出る。 それは「自然」というものに起因している。

 

 最終的に全ては「無」に帰る、そういう直感がある。 きっと、生まれ育った環境の中で、僕自身が感じとったことだと思う。

 

 

 

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