日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

その人の役割。

 写真集を販売してます。 shop または、ホホホ座浄土寺店 にて。

 

 

 

 宇宙。 四角く黒い闇の横に並んだ二つの星は、「清明神社」と刻印されている。 ちなみに、この宇宙はSECOMに見守られている。 

 

 今朝、撮影した1カットめである。 

なんでもないものが、自分には何か違ったものに映ったり、または別のものを想起させた時、僕はシャッターを切る。 それは写真を撮る方法の一つ。ほんの出来心、思いつきに過ぎない。 だからメッセージも何もない。 最初から変わってないと思う。 それを恥ずべきことと今は思わない。

 

 例えメッセージなどを持たなくても、「何か」がある写真。 そういう写真を自身の身体を通じて見つけ出す行為こそが、僕にとって写真と遊び続けられるための一つの方法だと思うし、また僕にはそれしか目指す場所が見つからなかった。

 

 仮に何かのメッセージを掲げてみても、取って付けたことには始めから無理がある。 表現する人間が謙虚さを見失うことは危険。 そのうち行き場をなくすことにもなりかねない。  それは置いといたとしても、写真で世間に何かを訴えるというのなら、まず、自分自身をも勘定に含めた上で行動しなければいけない。 

 僕は単に、「写真」を撮っているだけの人なのだ。 素朴な姿勢の中に全てはあると考える。

 

 

 先週のETV『日曜美術館』、 ゲルハルト・リヒター『ビルケナウ』の特集。 

 リヒターは、ホロコーストでの死体の償却現場を決死の覚悟で撮影された写真、それを絵画として複写し、いつものやり方で塗りつぶす、そうやってこの絵画を締めくくらせた。 

 それを聞いて、なるほど、そういうやり方もありなのか、とひとまず僕はそう思った。 

 しかし独りの画家が抱えられる責任と行動を考えたときに、この作品での、その謙虚さは重要な意味を持つ。 たしかにあの作品は売買の対象にはならない。

 

 などと考えていたら、やばい。 シリアスに負けてしまいそうになる。 とりあえずそういう事実を知った上で、僕はその場所に群がるのは止そうと思う。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大竹伸朗 HNK BS の番組の冒頭で、作家の言葉が画面に映し出される。 著作からの言葉なのだろうけど、どの著作なのかは、僕は知らない。

 

「無責任」に

創作とつながっていることは

ことのほか気持ちがいい

無目的かつ無意味

無責任であることは

創作の本質とつながっている

手を動かしながら

ふとそう思う

 

 

 最近、このブログで、僕は大竹伸朗という名前をよく出しているが、その理由はこの言葉にある。 この言葉を聞いて僕は大竹伸朗という人に対するイメージを一新し、この画家の人間性と創作の本質を一気に理解することになった。 

 

 

 ・・・・と、ひとまず、ここまで。 また、この続きらしきことを更新します。 今日と明日は連休なので。

 

 

 

 

 現在の夜明け・・というか、空が青くなるのは、午前5時過ぎた頃。 今朝は3時半に家を出て電車に乗らず、目的地らしきところまでの徒歩移動。 

 14,555歩を歩いて、235カットの写真を撮る。