日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

作品を見るタイミング。

 

 

 

 

 

 

 昨日の午後には相当疲れてたはずなのに、夜中に目が覚めるとその後が眠れない。 

 

 耐えられず、午前1時半ごろ布団を出て、部屋で『オードリーのオールナイトニッポン』を聴きながら、そして、机に積んだ本を眺めながら、出かける時間までの時間をぼんやりと過ごす。 

 

 以前にも書いた『PICASO  Cut Papers』や、大竹伸朗『ジャリおじさん』『18』なんかをパラパラと眺める。 

 

 大竹伸朗『18』の写真を見て思ったこと。 

 やっぱり、後のことを考えて撮っている。 今、目の前に見えているものは何なのか? それが後の自分の目にはどう写るのか? という視点が意識されている。 いつも思うのだが、写真を撮る行為には、今という時間を理解し噛み締めようとする意識が、必ず働く。 

 

 北海道の広い大地に大きな空。 ページのめくればガラんと空いた空間に、多分に若い作者の自意識が充満していて、この本はそれが大前提としてある。 「大竹伸朗」の若かりし頃に見た風景、それは他人にとっても見る価値があると思うけど、どう? っていう具合に。 

 

 とにかく作者が18歳というこの時点で、ちゃんと外の世界が見えているのが、当たり前のようで、実は当たり前のことではない。 茂木健一郎の「この写真は日本じゃない」ていうのも、ひとつの感想で、なるほどなあ、だ。 

 どれほどの量の写真が撮られたのかわからないけど、1974年に高校を卒業して絵を描いていこうとしている若者が、この時代に自分のカメラを持ち、面倒がらずに記録と表現の要素を兼ね備えた写真を撮っているのは、起こるべくして起きている。 本当に当たり前に思えてしまうくらいに。 

 

 それともうひとつ・・・本人の意思かどうかに拘らず、写真は時間を経過し、時代も経過すると、撮られたその時の生々しさが失われ、爆然と、そしてぼんやりと眺められてしまうということ。 

 一見、物語のように見えて、それには直結しないのである。 歴史は言葉で表現されるが、写真は違う。 その時のその場のディテールが写るだけで、結果として、ひとつの言葉に絞られるようなことは、起こらない。 

 

 『18』の巻末には、カラー写真『69年式510ブルーバード、牧場にて』というタイトルで、トタン壁の倉庫に置かれた赤いブルーバードの写った写真が貼られているのだが、これこそは、ある種の偶然性以外の何者でもないと思う。 

 直接的に何を言おうとしているわけでもなく、単にイメージの広がりを意図した写真。 そういう写真の散漫な部分に人は惹かれるのだろうと思うのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今朝は、京阪「丹波橋」から、北西に向かって歩く。 先日23日に雨で途中断念したその続きの道を、JR京都駅まで歩く。

  15,249歩を歩いて、撮ったのは260カット。 まあまあ。

 

 

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よろしくお願い申し上げます。