日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

わかんねえだろうな〜は、松鶴家千とせのセリフ。

 

 

 今朝も京阪の始発電車で座席に座ってウトウトしていると、神宮丸太町駅にて METORO  の帰りであろうアナログやCDを裸のまま抱えたヒップホップの4人組が乗ってきて、楽しそうに話している。

 

 若くて声もでかい会話の中、ひとり口数の少ない人がいる。 向かいの座席に座ったので顔を見ると、感じの良さそうな笑顔の男の子。 僕がまたウトウトしているうちに、電車は祇園四条を過ぎて他のお客さんも増え、目を開けてみると、その向かいの男の子も眠っている。 そう言えば最初、その4人はマスクをせずに乗車してきたけど、気がつけば、向かい側の男の子だけはマスクをしている。 どうやら他の3人とはちょっと違う立ち位置。 なんか、いいなと思う。 

 その後、僕は墨染駅で下車。 改札を出て東の山に向かって歩き出し、ホントにまったく知らない街だなあ、と今朝もまた、そう思う。 

 

 

 

 

 

 

 しばらく歩き、何かの拍子に立ち止まり、カメラを三脚に取り付け、「それは撮っても無駄なんだよ」とわかっていながらも、最初のシャッターを切る。 

 嘘でも自分を騙すことで撮影を始めなければ、機会はめぐってきても捕まえられず、そうなれば今朝の写真は意気消沈したものになってしまう。 絶対にそれだけは避けたい。 

 

 アレック・ソスのインタビューによれば、エグルストンは自分を疑うことがない人らしい。 僕はまず、自信に満ちたエグルストンにも驚くが、自らを疑うタイプだというアレック・ソスにも驚く。 たしかにそれぞれの写真を見ると、そんなことも何となく理解はできるが、やはり写真には見えないものが写ることには間違いはないらしい。

 

 JR藤森駅を過ぎて、ほぼ坂を登りきり(この駅には以前に来て、ここから電車に乗って帰った記憶が蘇った)、北方向に歩き出すと、闇が徐々に青く透明なものに変わりだして、自分の眼にも確かな景色が見え始める。 そこからはいつもの如く、撮影に夢中になる。 あとは安心して自分の意思に身を任せる。 今朝もひとまずの、「撮れ高」あり。  

 

 今さらながら写真とは、自らの眼の欲望に真摯に答えようとする理性的な意思の現れが形になったもの、だと思う。 僕にとってはね。 一見、下手に見えても、その根底に撮り手の意思さえあれば、それは上手い写真なのである。 いや、実はそれがいちばんむずかしい。 

 

 そんな時、僕の頭の中では「わっかるかな〜、わかんねえだろうな〜」という松鶴家千とせのセリフが鳴り響く。 

 ところが、今さっき『松鶴家千とせ』を検索してみると、2022年(令和4年)2月17日木曜日10時4分永眠 と書かれている。 知らなかった。 

 通り一遍のセリフにしか聞こえないかもしれないが、ご冥福をお祈りします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 京阪・墨染駅から龍谷深草までの 11,582 歩を歩き、192 カットを撮る。 この後、午後のことを考えて、今朝はネバらず、手短かに撮影を終わることにした。

 

 

 

 そんな、龍谷深草の駅前の橋からの眺め。

 

 

 引き続き、

写真集は、shop にて、または以下のところにて、販売中。

 

VOICE GALLERY

修美社

ホホホ座・浄土寺店、店頭にて。

 

よろしくお願い申し上げます。