休日。 自由の身。
小雨の降る中、午前4時に家を出て、始発の京阪電車を四条で阪急電車に乗りかえ、桂駅で下車。
駅前のセブンイレブンで買ったおにぎりを二つ食べた後、撮影を始めて間もなくに撮ったのが、上の写真。 セルフポートレイトである。 今にも消え入りそうな感じに写っているのが良い。
今朝は駅から桂川を南の方へ下がって、最初の橋を渡り東方向に歩いて行こうと思っていたのだけど、遠かったはずの久世橋まで橋がなくて、渡ったその後も撮影を止めることができず、結果、京都駅まで歩き続け、予想を遥かに超えた距離の移動となった。
とは言え、その分多くの満足感も得る。 撮ったのは、388カット。 いつもより多い。
写真のクオリティーはひとまず置いといて、久世橋を東に渡って折り返した辺りが、撮影的にはピークだった気がする。
いつものことだけど振り返って思うのは、僕にとっての撮影の時間とは、誰に頼まれるでもなく、ゼロからの自分の意思に基づいているものだから、その一瞬一瞬の時間を味わいたいということである。
でも実際は、無我夢中。 一週間に1〜2度の自由な時間を無駄にしたくはないし、尚且つ良い写真を撮って前に進まなければという意思が先に走り、焦ってばかりの繰り返しになる。
とりあえず「撮れたかな」と思えるまでは、空回りの状態。 無駄と分かっているものでも撮って、気持ちと写真のタイミングを待つしかない。
そうやっていくうちに、家を出る前には予想もつかなかった場所に自分自身がいたりする。 それが意外で、いつも面白いのである。
ちょっと話は変わるけど、先日、次回の展覧会用のコメント文を書いてみた。
いちおう(仮)の文章としているけど、大筋はたぶん変わらないと思う。 それをこの場所に、”コピペ” しておく。 よければ読んでみてください。
夜明けの時間に、日中に、街をさまよい歩き、写真を撮っている。
別段、京都の街そのものに写真的意味を求めているわけではなく、撮る対象になるのは、ほとんどの人には意識されない、どこにでもあるような街の風景の中に潜む「断片」である。
2020年の春頃から始めたこの撮影は、青い光の色彩と、予期せぬ些細な偶然の積み重ねにより、作者と写真の間に一言では言い表せない固有の関係を生み出しつつある。
意味のないものを意味のないままに写しとる、それが写真の凄さだと思う。目の前の風景は写真になるために存在するのではないし、そこから創作の結論を導き出せるほど単純なものでもない。ただ、習慣的に繰り返し撮影された写真の「量」の中には、安易な言葉を捨て去り、物の質量と表面のみから伝わる叙事的な「無」の世界が、作者には見えてきた気がしている。
街の姿とは人間存在の別の姿であり、我々が立つ足元の土を覆い踏み固め、我が物顔で世界を形成しているように見えるが、そこには必ず終わりもある。そのことは写真を撮っている間、常に私の脳裏から離れない。
人の心のもろさと、風景の儚さ。そして自らの意志のみによってそれらを写しとる繰り返しの行為の果てに、一瞬だけ味わえる自由。
写真を撮ることによって自ら身体の中では、常に何かが渦巻いているのである。
・・・・・現代的な美術作家と違って(たぶん多くの)写真家は、コンセプトではなく写真と自分の間の関係と偶然のタイミングに合わせて創作をするので、基本撮る前の姿勢的なことしか言葉にできない気がする。 具体的な内容に関わることは予想できるものではないし、またするべきではないと思う。 少なくとも、僕にはできない。
めちゃめちゃ考えていても言葉にできないことは存在するのだ。 わからないものを抱える自分自身がいるからこそ、創作は面白くなるのだと思う。
最近の自分は「写真」の行動を「創作」と言ってしまっているが、それに異論がある人もいるだろうと思う。 それはそれでいい。 でも僕は「写真」のことも「創作」と言いたいと思っている。 だって、手探りでしか、事は進まないのだから。
今日の更新のタイトルは、ビートルズの曲名から。 写真も” I've got a feeling ” と言えるものだと思う。 むしろ、対象に受け身になるという写真家の姿勢に、この言葉はぴったりではないかしら。 Let It Be をかけながら、これを書いていたので、そう思いました。
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