日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

何故かは知らねど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 電車で移動しないで、ひたすら歩いて眺める大阪の街。 今朝で4日目。 毎回足が棒になる。

 今日1日で、京都からの行き来も含めて、27,456歩を歩いた。 京都の街を撮ってきた以上に、大阪を「歩いて撮って」するわりには、なかなか次なる何かが見えてこない。 とくに今日は空回りに終わった気がする。  

 

 これまでは、誰かの展覧会を観て、いい刺激を得たところでの帰り道に写真を撮ってみる、その程度だった。 大阪で写真を撮る意味も意義も見つけようとは、全くしてなかった。

 今もそれは同じなのかもしれない。 なのに大阪に通うしかないと、今は、自然にそう思い込んでいる。 不思議。

 

 で、この先、いったい何が撮れれば、僕は僕の写真を良しとするのだろう?  わからない。

 いや、もともと写真を撮ったからと言って、写真家自身が何かを理解したとも僕には思えない。 他者は他者。 簡単に交わることもなく、写真など撮ったところで、相手にはいい迷惑な場合もあったっておかしくはない。

 そして今現在の僕は、・・・とくに今日などは、撮影の行動を起こして体感した「写真」そのものにしか、関わってない。 他者にはせいぜいコンビニで「トイレお借りします」くらいしか、関わっていないのだから。 もちろん感謝はしているけど。

 

 その後、久々のアメリカ村

 「黒田征太郎」の絵に再会する。 大竹伸朗が持って行った大量の絵をきちんと見て、「こいつに仕事をやれ」と言った人の絵である。 それがある、アメリカ村

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 別に「若い頃、よく遊びに行きました」というほどでもないけれど、そこそこの思い出はある。 今も若くて元気な街なのかしら。 僕が行くのは早朝だから、午後から夜にかけての街の眺めは、よく分からない。

 しかしゴミの散乱だけは、なんとかならないものかと思う。 先週の北新地も、生ゴミの匂いが鼻に残ってしまった。

 まあ、こちらは、そういう人間の愚かさも含めて撮りたいと思っているのだけど。 

 

 とどのつまり、僕の写真も、行き着くところは「人間」である。 

 

 人間自身が作り出した村や街をはじめとする環境、自分たちと自然とが別の存在と思い込んでしまった「勘違い」も含めて、眺める立ち位置がそこにあるというのは、確かなのだと思う。 別にそれをどうこうしようという訳ではないのだけど。

 とりあえず、否定的な見方だけで終始したくはないけれど、ダークな部分の存在は、写真を撮る自分の中にも、自覚しなければいけない。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ともかく今は、自分の中にある他者からの無理解と劣等感、それに対する悔しさの克服が先に立ってしまっている。

 撮るのは誰のためのものでもない。 自分のためにやりたいことである。 それを他者に譲らないで生きる、そういうことである。 

 

 写真から矛盾を無くし、自身も綺麗さっぱりする事は不可能。 最近、それを自覚した。