日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

生ぬるくては、何も生まれない。

 

 

 

 展覧会を終えてからしばらく時間がたつと、元から自分の中に抱え持っている悔しさの感覚が沸々と再燃し始めた。

 展覧会にて一時的に得たことも、時が経つに連れて冷めて見失うのが日常である。 そんなこともあって、今朝の自分には自己に対する過度なプレッシャーがあった。

 大袈裟な言い方だけど。

 

 

 午後9時過ぎに布団に入ったものの、午前1時過ぎには目が覚めてしまい、そこからしばらくは布団の中で辛抱したけど、結局午前3時ごろにはそれも無理になり布団から出てしまう。  本やラジオなんかでお茶を濁さないと、自身に向き合うばかりでは気が変になりそうだ。

 部屋にて YouTubeで細野晴臣氏のラジオを聴く。 困った時の細野晴臣、そして大竹伸朗の言葉。 心が落ち着き、やる気に満ちてくる。

 

 その後、午前5時ちょうどの京阪電車の始発に乗って、終点・大阪の淀屋橋に到着。 撮影を始める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 コロナ中、ほぼ来ていなかった大阪の街は京都とは異なり、高揚はするものの、街に振り回されながらの地に足のつかない撮影は、混乱そのものも増幅させる。

 

 シャッターを押す回数は確実に増えても、何を撮っているのかという頼りなさも膨らむ一方。

 あっという間に100や200の枚数を撮るが、それも序ノ口にしか過ぎない感覚は消えない。 写欲に任せた歩みは成り行き任せな分、食べるタイミングを失って腹は減るし、方角もわからなくなるし、本当にヘロヘロになる。

 そんな状態でも撮るしかなく、そこを打破しなければ、この先何にも見えてこないのだ。 この時点で15,000歩くらいは歩いただろうか。 とりあえずは、阪急電車の梅田駅をゴールにして、一旦決着をつけることにする。

 駅のホームにて、コンビニで買ったパンを食べる。

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 久しぶりの阪急電車に乗って京都に帰ってはみたが、このままでは家に帰ることもできず、前回の撮影の時と同じく、また京都でも写真を撮ることになる。

 

 今やるべきことは、大阪での写真と京都での写真のテンションを同質なものにして、視点の地ならしをするということである。 それでいて、そのスタイルに縛られてしまうことがあっては、写真の持つ可能性を見失わせることになってしまう。

 

 真の目的は「大阪」という場所でも「京都」という場所でもない。 人の暮らしを形作った街そのものにあるのであって、そこからどんな写真が現れるのか、テーマはそこにあるのである。

 何にせよ、そんな欲求を持っているのは自分なのだから、止めて全部無かったことにしてしまうのも、全然ありなのである。 そんな人生は、もう要らないけど。

 

 次回、京都での写真に続きます。

 

 ちなみに下の写真は京都に移動してから撮ったもの。 こんな感じで大阪と京都がつながっていくことは、今のところ悪くはない気がしている。