雨の中、梅田まで歩いて良かった。 無駄なことなど、一つも無い。
梅田に着くと、駅構内や周りをうろうろ徘徊する。 人の流れを撮るのが心地よい。
自分の撮りたい人の姿とは、ポートレートというものではないらしい。 風景の中に点在する人。 その流れ。 その状況。 物語ではない「今」という時間。 言葉にならないリアリティ。 そんなんが、好きみたい。
今日もまた、録画した日曜美術館『野見山暁治の宇宙』を再生しながら、この文章を書いている。
100歳を過ぎた野見山暁治と少し若かった頃の野見山暁治の、ほぼ画質の優劣もなく、絵を描く姿や、話をする姿を見ることができる。
100年生きると人はこんなふうに姿が変わるのか、ということが凄く新鮮に見えた。
そして、『こころの時代・100年のアトリエ』では見せてなかった、野見山暁治という人の別の姿が見えてきて、さらに僕はこの人を好きになってしまうのである。
ああ、ちょっと前までは生きておられたんだなあ、もういないんだなあ、そんな当たり前のことを、しみじみ感じてしまうのである。